第2話 膝の上の空間

 ご主人は毎日、「お仕事」に出かけます。

 朝になると、僕たちに食事を与えてから椅子に座ってごそごそと準備します。顔に何かを塗ったりはたいたり。そのたびに、砂糖のような甘い香りが部屋中に漂うのです。実は僕は、この香りが好きではありません。僕の好きなご主人の匂いがかき消されてしまう気がして。

 お兄さんはそうでもないようで、ご主人のこの儀式が始まると決まって足元にすり寄って、小さく鼻を動かしています。マタタビでも嗅いだように心地よさそうな顔です。僕には理解できないな。

 今日のご主人はちょっと慌ただしく部屋中を駆け回り、艶々と黒い鞄を手にとって「いってきます!」と言い置いて、騒々しく出て行きました。

「ご主人のお仕事って、なんだろうね」

 僕の疑問にも、お兄さんは、さあ、と言うように手足を舐めています。

 ご主人が帰るまで、僕は用意されたお昼ごはんを食べたり、部屋じゅうをうろうろしたり、窓の外を眺めたりして過ごしました。窓の外には違う建物の屋根が見えているのですが、時折、見知らぬ猫の姿を見かけることがあります。かわいい雌猫なんかがいると、思わず背筋をぴんと正して、だらしない飼い猫らしさを見せないように努めてしまいます。

 対してお兄さんはまったく興味もなさそうに、ぼんやりと空に浮かぶ雲を眺めていたりします。本当に雄猫なのか、疑いたくなるくらい。

「あの子、かわいいなあ」

 わざと、聞こえるように言ってみたことがあります。だけど、お兄さんは澄ました顔のまま、ごろりと姿勢を変えて再び寝入ってしまうのです。

 この日、ご主人が帰ってきたのはすっかり夜も更けたころで、どんよりとくたびれてぼろぼろの姿で玄関に倒れ込みました。僕らは慌てて駆けつけます。

 ご主人の頬に肉球を押しつけてみますが、「うぅ」と小さく唸るだけ。熱でもあるのか、どこか痛いのか、心配で胸が張り裂けそうでした。お兄さんも同じ思いのようで、見たことないほど焦った顔をしていました。ご主人の頬や額を懸命に舐めて、耳元で鳴いています。

「のわー、る……」

 唐突に、ご主人が呟きました。

 ノワール、は僕の名前じゃありません。

 僕も反対側から何度も鳴いて呼びかけました。するとようやく、ご主人はわずかに顔を上げ、

「あ、ムスタ……」

 と言ってくれました。

 それからご主人は這うように部屋の奥へ進み、なんとか服を脱いで、水場へ入っていきました。水場は、ご主人が水浴びをするところです。僕もここへ来た当初に連れ込まれて、怖ろしい思いをしました。だって、水がものすごい勢いで降り注いでくるんです。それ以来、僕はなるべく近寄らないようにしていました。

 お兄さんはというと、ご主人が水浴びしている間もずっと扉の前で鎮座していました。ざあざあと降り注ぐ恐ろしい水の音を、澄ました顔で耳をそばだてて聴き入っています。ほんとうに、変わった猫だなあ。

 ご主人はやっと外へ出てきたと思ったら、食料庫から小さな缶を一つ取り出して、ソファにどっかりともたれかかりました。缶の中身をぐいぐい、飲み干していきます。

 ご主人の頬はたちまち真っ赤に染まって、目つきもどことなく怪しくなっていきました。まずい兆候です。僕たちは思わず目を合わせてしまいます。

 ご主人は鞄から平べったい何かを取り出して、耳に押し当てました。

「ああ、ヨーコ」ご主人の声。「結局だめだったよ、全部やり直し。全部、わたしがやったの」

 ヨーコ、とは、ご主人の口からたびたび出てくる名前です。友達か兄妹かわかりませんが、ずいぶん親しそうなのはわかります。

「もうほんとにだめ……疲れちゃって、何もする気が起きないの。……え? ごはんなんか、食べる気力もないよ……わかるでしょ……」

 それから話は延々と続きました。ご主人の話から察するに、「お仕事」がうまくいかなかったようです。誰かの失敗をなすりつけられたようなことを、ヨーコに訴えています。

「もう、いいんだ……ほんと、わたしなんて……何もかも上手くいかなくて……仕事だけじゃないもん、恋愛も……」

 たまらず、お兄さんが動き出しました。意識がほとんど朦朧としているご主人の膝に飛び乗って、身体をくるりと丸めます。

 ご主人の手が、無意識にその背に触れました。もふもふと柔らかい毛並みを撫でるように動かして。

「うん……うん……ごめんね、わたしばっかり話しちゃって。今度はヨーコの話も……え? ああ、そうね、お茶、しようね……する時があったらね……」

 それじゃ、と言って、ようやく話は終わりました。ご主人は背もたれにくたりと身体を預けたまま、瞼を閉じてしまいます。

 ふと、お兄さんが僕の方を見ました。意味ありげな目線を絨毯の方へ向けます。そこには、くしゃりと丸められたブランケットが置かれていました。

 持ってこい、ということのようです。

 僕は急いでタワーから降り立ち、柔らかい布地の端を咥えてソファに登りました。ご主人の肩から膝にかけて、しっかり覆うようにしてかけてあげます。

 この日、僕らはご主人の両側に丸まって、一緒に眠りました。空いている膝の上を今なら陣取ることができたけど、そうしなかったのは、お兄さんが僕に譲ってくれた気がしたから。そこに甘えるのは、なんだか癪で。

 僕が甘えるのはご主人の手のひらだけです。

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