第6話 かなしい雨 二

 はじめに、くさい、という嫌悪感がありました。煙に巻かれているような、くしゃみを飛ばしたくなるような嫌なにおいです。それで見上げると、玄関に立つご主人の後ろで、半開きになった扉の向こうに大きな人影が見えました。

「すみません、汚い部屋で……」

 ご主人は僕らの方を見もせずに後ろの人間へぺこぺこしています。それから床に落ちたブランケットをソファへ放ったり、テーブルの上を片付けたりして急いでスペースを作りました。

 大きな人間は足元で毛を逆立てている僕を見下ろして何事か呟きました。低くがさがさした声。昼間、あの平べったいものから流れていた声だと気づきました。

「そうなんです、うちの猫です。おとなしいので失礼はないと思いますが……」

 ご主人に向かってまた何か言いながら、大きな人間のカタセは両手に白い袋提げて部屋へ上がりました。それはご主人がいつもご飯を持って帰ってくる袋でした。

「もう、すみません、わざわざこんな、日常のお買い物にまでおつきあいいただいて、おまけに袋まで……!」「いつものことですから、本当に、よかったのに……」

 ご主人と低い声との応酬。相変わらず大きな人間の言葉は僕にはわからないけれど、なんとなく、このカタセという人間がご主人の「お仕事」の仲間で、その中でもちょっと偉い奴なんだろうなということがわかってきました。ご主人は全然頭が上がっていない様子だし、僕たちのことなんか見向きもしません。いつもなら真っ先に僕らの頭を撫でてご飯を出してくれるのに。

「あの、ほんのお礼にお茶でも……」「いえ、わたしの気が済みませんから」

 ご主人は小さなねずみのように食料庫へ急ぎ、かちゃかちゃと手を動かしています。僕はその間、タワーの上でじっとしていました。お兄さんと一緒に、ご主人とカタセから片時も目を離すまいとして。

 カタセは部屋に一つしかないソファに座り、そばに突っ立っているご主人に向かって君も座りなさいというように促しました。たちまちご主人の頬が真っ赤に染まり、おずおずと隣に座ります。

「きょ、今日は、ありがとうございました」

 上ずったような乾いた声。緊張しているのかな。

「わたし、お誘いいただいたとき、とても嬉しくて……あの、今日は、楽しんでいただけたのでしょうか……」

 そう呟くご主人の目は絶えず膝の上を見ていました。恥ずかしそうに、ぎゅっと手のひらを握りしめて。

 ああ、これじゃまるで、ご主人がカタセに恋しているみたいだ!

 ふと隣に目をやると、お兄さんは額に皺を寄せ、タワーの床にぎりぎりと爪を立てていました。今にも飛び出さんばかりの勢いに、僕は少し引っ掛かりを覚えます。

 お兄さんはご主人の幸せを何よりも一番に考えています。常にご主人の様子から機嫌を汲み取り、静かに見守りながら必要な時に慰める、そんな賢い猫なんです。

 カタセとご主人の関係はまだよくわからないけれど、新しい幸せの兆しがあるならむしろ喜んで応援するであろうお兄さんが、これほどまでに敵意を剥き出しにしているなんて。

「あの……カタセさん……」

 困惑したようなご主人の声に僕は我に返りました。いつの間にかカタセがご主人の方へ、今にも覆い被さりそうな姿勢で迫っていました。ご主人は困ったように身をよじりながら……震えています。

 カタセの低い囁きが静かな部屋にこだまして、僕の耳を嫌な感じにざわつかせます。ざらりと舌で舐められるような不快な響きです。ご主人はまたわずかに身体を反らして、少しでも距離を空けようとしています。

 嫌がっている?

 人間同士のスキンシップを僕は見たことがありません。猫と同じように頬を擦り合ったり舐め合ったり、においを嗅いだり、好意を感じているならするのかもしれませんが、どうもご主人は違うみたいです。

「あの、待ってください!」

 抵抗するご主人の声に、低い声がまた囁きます。ぞっとするような猫なで声……僕の背筋にびりりと悪寒が走ります。

 そして次の瞬間、カタセがご主人の方へ倒れ込みました。その体格差は歴然で、大きな身体の下でご主人は小さく細く、か弱い小動物のように見えました。

 カタセの低い声は囁くような甘さを失い、押さえつけるような厳しい声色でご主人を叱咤しながら唇を重ねます。あまりの光景に僕は一歩も動くことができませんでした。猫同士のスキンシップに似ているけれど、何かが明確に違う。捕食者と餌。そんな風に思えてならないのです。

「やめてください!」

 やっとの思いで絞り出した声を封じるように、カタセは首に巻いていたものをぐるぐる丸めてご主人の口へ乱暴にねじこみました。あとはもう、苦しげなご主人の呻く声と、低く荒い息だけしか聞こえません。

「お、お兄さん」

 いくらなんでも、これは……

 言い終わらないうちに、視界の端で黒い影がびゅんと唸りました。しゃっと怒りの声が響き、きらりと光る爪がカタセの背に突き刺さります。

 ですがカタセはびくともしませんでした。まるで意に介していません。

 ――ねえ、これでいいかしら? 綺麗に見える?

 朝からご主人が長い時間をかけて吟味していた、あの淡い綺麗な服がはぎ取られ、乱雑に床へ投げられ、無残に散った花のようにしおれている。……

 もう我慢ができない。こんなの絶対に間違っている!

 僕もお兄さんに続いてタワーを飛び出しました。絨毯の上を全力で駆け抜け、荒ぶるカタセの背に勢いよく飛びかかりました。

 低い声が驚愕に唸り、半身を捻って腕を振り回します。でも僕は知っています。人間はのろまでとろいってことを。こんな奴の腕の動きなんて僕の目には止まって見えるのです。僕は手のひらから爪を剥き、力いっぱいに引っ掻き回しました。

 低い声は絶叫に変わり、カタセは腕から血を流してソファから飛び退きました。上着をひきずり、何事か喚きながら逃げるように部屋から出て行きます。ばたん、と扉の音が空気を打ち震わし、部屋は再び静かになりました。

 そうだ、ご主人は。

 ご主人は半裸に近い格好でソファに横たわり、ぼうっと天井を見上げていました。もしかして口に変なものを詰め込まれて窒息してしまったんじゃないか――

 その時ご主人の白い手が動き、口の中へ手を入れ、ゆっくりと中のものを取り出しました。しばらく人形のような表情でじっとそれを見つめます。

 と思ったら突然、ふっと頬が崩れました。引きつったようにくぐもった笑い声を立てて、小さく肩を震わせながら。

「ふふ……ふふふ……」

 とうとうどこか壊れてしまったんだろうか。いつの間にかソファの下にお兄さんがいて、心配そうに見上げています。

 ご主人はそれからしばらく狂ったように笑い続け、笑いながら嗚咽を漏らし始めました。不穏な空から突然の雨――大きな黒い眼から涙がぽろぽろと止めどなく落ちてきて、ご主人は抱えた膝の上にわっと顔を埋めてしまいました。だらりと垂れた手からあの丸められたものがぽとりと床に落ちました。

 お兄さんは僕とそれとを交互に見ています。合図というか指示です。だけど僕は首を振りました。

「たまにはお兄さんがやってよ」

 今は、ご主人の涙を止めなくちゃ。

 前にもやったように僕の毛並みで受け止めれば、きっと止まってくれるはず。止まらなくても、ご主人の心は落ち着いてくれるはず。

 僕はご主人の膝の下にするりと入り込みました。ぽとり、ぽとりと生温かい雫が落ちてきます。しょっぱくて悲しい雨が僕の頭を、背を、濡らします。

 雨は全然止みませんでした。どうしたらいいんだろう……しっぽを動かしてご主人の脚を撫で、舌で舐めてみたり、鼻先を近づけてみたり、手当たり次第にいろんなことを試していると、冷たい指先が僕の背に触れる感覚がありました。膝の横からご主人の手が伸びて、僕の毛並みを撫でています。

 泣きながら僕の背を撫で、彼女は、僕にしか聞き取れないような小さな声で呟きました。

 おそらくお兄さんには聞こえていないと思います。僕の耳は、ご主人の「ノワール」と囁く声をはっきりと捉えていました。

 大きな敵を追い払っても、冷たい涙を受け止め続けても、やっぱりご主人は僕の名前を呼び間違えるんです。着せられている服は違うから見間違えるはずもないのに。

 僕はムスタなのに。

 僕はご主人の足下から飛び出しました。お兄さんの隣に転がっているものを咥えてごみ箱へ乱暴に放り投げます。

 そしてすぐに僕は後悔しました。

 振り返るといつの間にかお兄さんがソファに飛び乗っていて、ご主人の脚の下にいます。さっきまで僕がやっていたようにご主人の涙を受け止めています。

 ご主人はさっきと同じように手を動かし続けていました。脚の下の黒猫の背を撫でながら、乞うように、切ない声で「ノワール」と呟くのが聞こえるようでした。

 ああ、僕はまだ幼い子どもなんだ。

 頼りなくて、ふがいない。

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