1063話 上杉の立場表明
伏見上杉屋敷 武田信清
1591年冬
「これはこれは、まことに羨ましい限りで」
「いったいこれの何が羨ましいと言えるのでございましょうか、友重殿」
「周りからすれば羨ましいことこの上なく思いますぞ、信清殿。御方様からの文など、いくら望んでも手に入れられるものではございませんのでな」
「身内なのですから、文を望んでおられる方々とは状況が違いましょう。そもそも妹相手に憧れといった感情など抱きませぬ」
手にある文は国許の越後より届けられた松からものであった。
中身は実に目出度き話から、なかなか興味深い話から。とにかく様々なことが文を通して知らされた。
最も喜ばしかったことといえば、三十路にしてついに懐妊したということ。念願の子であると殿も松も大喜びだという。しかしそれは当然のことであった。
上杉家は養子同士の御家騒動が起こり、血の正当性を認めぬ者たちが反乱を起こしと、とにかく血縁というものが非常に重視されてきた。しかし正室であった松は、輿入れして随分と経つのに未だ子に恵まれておらず、周囲も心配の声を上げていたのだ。
そしてそんな中で側室として迎えた公卿四辻の娘。果たしてどちらが先に懐妊するのかと周囲がざわめき立っていた中でのこの報せ。兄としてもようやく一息つくことが出来た。
それに四辻の娘は置かれている状況が悪い。父親の四辻権中納言様は宮中の風紀を乱した罪を問われ、現在は自邸での謹慎を申しつけられている最中。近く勅勘を蒙るのであろうが、その余波が越後にまで届くことは十分に考えられる。
もし仮に四辻の姫、岩姫様が懐妊、あるいは出産していた場合、公家衆と深いつながりのある上杉家も難しい決断を迫られていたやもしれぬ。
「ふむ、それもそうでございますな。ところで越後の状況は如何でございますか?あの一件でそれなりに動きがあったと思いますが」
「殿の懸念通りでございますよ、友重殿。あれだけ反対したにもかかわらず、友重殿が強行されましたので。その嫌味もこの文に込められております」
「しかしだからといって、あの流れに抗うことが出来ましたか?私には到底そのようなことは思えませんでしたがな」
伏見上杉屋敷の留守役である
その様子を見て、俺は大きく息を吐いた。
「毛利家より提案された禁中法度の賛同要請。あれは公家衆が非難しているほど酷い内容であるとは思いませんでした。むしろ悪しき歴史を繰り返さない上では必要なことでございましょう。かたくなに反対するよりは、こちらで修正箇所を提案できる立場につく方がよほど賢い。そう思われたからこそ、信清殿も最後は頷かれたはず」
「非難は名代である我らに集まると思っておりましたので」
しかし長らく公家との関わりがあった越後は、今も下向先として多くの公家が集まっている。
当然、此度我らが禁中法度の発布に賛同したことも伝わっているわけで。連日、殿の元には考えを改めるよう説得する公家が姿を見せているようであった。
松は懐妊中であることを理由に、体に負担がかからないよう表には出てこないよう配慮されているようであるが、ある種今回の一連の騒動の当事者と深いつながりのある岩姫様は酷く苦労を掛けられているとのこと。
松に俺を責める意図など無いのだろうが、それでも文の節々に岩姫様が可哀想だというような文言が含まれていることを俺は見逃さなかった。
「しかしそれほど良いものでございましょうかな。たかが文でございますぞ」
「たかがとは。その“たかが文”の貴重さをまるでわかっておられませんな」
あまりにもしつこく言われるゆえ、俺はその文を友重殿に渡してやった。決してくれてやったわけではない。
ただ見せてやっただけである。
そうするとこれまでの態度とは全く違う。別の人間かと疑うほどに、たいそうありがたがって文を天に掲げていた。これではまるで宗教である。
たしかに松は誰にでも分け隔てなく接するゆえ、家臣らからの人気もある。加えて献身的に殿をお支えする姿に感激する年寄らも多いのだ。しかしだからといって、である。
「…」
「…」
「…」
松の書いた字とその内容に満足したのか、一通り読み終わった文は随分と名残惜しそうに俺の元へと返って来る。
そして「ごほん」と咳払い1つ。
真剣な表情になった友重殿は、ようやく俺の目を見て話し始めた。
「ところで佐渡からの鉱山資源の運び入れは順調でございますかな」
「それは当然、とも言い切れぬところが」
俺は上杉家の名代として幕政に参加しているが、その一方で別の役目も担っていた。
それが直江津や新潟港より運び込まれる佐渡の鉱山資源の保管と、堺に開所された造貨所への運び入れである。
これは幕府が執り行う天下の一大政策であるがゆえ、越後に居た頃より鉱物管理を担っていた俺に託されたのだ。
ついでに京であれば他の大名家との関わりが持てると、外交の役目も与えられていた。主に今川家である。
本来であれば武田の兄弟という繋がりを以てしてのはずだったのだが、妹の菊が嫁いだ一色政孝殿は特殊な立場にあってなかなか御所に顔を出されず、代わりの細川殿もその役目を引き継いでいるためかそうそう顔を合わせる機会が無かった。
先日ようやく目にしたと思えば、それは一時的に京へと入っている三河松平家の嫡子のみ。話をするにも、あの者では踏み込んだ話も出来ぬと諦めてしまったわ。
話が大きく逸れたが、順調では無いのには明確な理由があった。
それは元々我らが京へ荷を運び入れる際に利用していた港に船が溢れかえっており、思うように荷を下ろすことが出来なくなってしまったからである。
おかげで敦賀の港に入るために数日海の上で過ごす必要があり、また荷を下ろした後も人や船、荷が多すぎて身動きがまともに取れない。
ならば別の港へ入れればよいかと思っていたのだが、どこもかしこも似たような状況である上に、敦賀から離れれば離れるだけ荷を陸で運ぶ距離が増えてしまう。そうなると時間もかかってしまい、多くの人手が必要となるわけである。
運び手を雇うにも金がかかるゆえ、本国におられる兼続殿に苦労をかけぬためにもどうにか打開策が無いかと方法を探ってはいるのだが、そもそも入る港が無いのだからどうしようも無いというものである。
「最近は堺に南蛮の船が入らぬと聞いてはおりましたが、そこまで深刻な事態になっていたとは」
「敦賀に船を強引に入れた者曰く、このような有様であるためか明国の船も見なくなったと。敦賀からすれば明国の船が南蛮の船に代わっただけであると言っている者もいるようでございますが、浅井家からすればたまったものではないでしょう。例の噂のこともございますので」
「あぁ。あの幕府への献上品が無くなったとかいう。しかし見つかったと耳にしておりますがな」
「襲われたという話は聞いておりませんので。整備された街道を通るにしても、物が多すぎてはどさくさに紛れてということもあるやもしれません。今回たまたま騒ぎになったのが幕府への献上品であったために注目されましたが、実際はもっと多くの荷が失われているのやも」
自らの口で言っていて気が付いた。そして瞬く間に血の気が引いていくような気分になる。
奪われたのがそこら辺の交易品であれば良い。まだ替えがきくものが大半である。
だがもし仮に鉱物などが失われでもすればどうなるか。かつて今川家では港への輸送中に甲斐でとれた金が盗まれるという事件が起きた。
結局下手人は捕えられ、関与した者たち諸共罰せられたと聞いているが、此度もしそのようなことが起きれば、真っ先に疑われるのは間違いなく管理を任されている俺であろう。
松の兄であるなど、天下の政策を妨害することに比べたら些細なことである。いくら俺が無罪を主張しても、決して許されないこともある。まさにこれはその1つであると言えた。
「金が無いなどと言って、渋っているわけにはいかぬということでございますか」
「兼続殿に先んじて説明しておくべきでございましょう。護衛を増やすために人手、あるいは金が必要であると」
「…また松から文が届くやもしれません」
「私が喜んでお受けいたしましょうぞ。すべてを読んだうえで、信清殿にお伝えするというのは」
「駄目に決まっておりましょう。友重殿にも御役目があるのですから、早々にそちらに取り掛かられるべきかと」
痛いところを突かれた形となった友重殿は、渋々といった様子で俺の傍を離れていった。そしてそれをしっかり確認したのに、実は隠していたもう1枚の文を取り出す。
こちらもまた松からの文であったが、内容はあまり他人に見られるべきものでは無い。
こっそりと1人で確認する。
『家中では岩を四辻の御実家に送り返すべきであるという声が出ております。ですが岩は政略によって越後に嫁いだわけではございません。殿に見初められての輿入れであったのでございます。どうか岩をお救いください』とあった。
しかしこれは難しい問題である。仮に四辻権中納言様が勅勘を蒙れば、諸々の疑惑が事実であったと断定されたことになる。関与が無くとも連座で諸共捕らえられる、あるいは引き渡しの命が下されるということも考えられるのだ。
特に今回の騒動に関して、帝の怒りは相当であると耳にしている。いち名代程度ではこの問題どうにも出来ぬであろう。
むしろ下手に状況を引っ掻き回すべきではない。静観こそ、松の願いを叶える行いであるとどうにか説明すべきであろうかな。いや、言いくるめられるだけか。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます