1016話 今川家の婚姻事情
室町新御所 足利義任
1590年春
「醍醐での雪見茶会はうまくいったようで安心した。そういえたらどれほど良かったか」
珍しく公方様が体勢を崩しておられる。
部屋には私しかいないからであろうが、これほどまでに疲れておられるとは。傍にありながら、まったくそれを感じさせないほどに働き詰めておられたのだ。
今ここで公方様に倒れられるわけにはいかぬゆえ、もう少し気を付けておかねばならぬ。
「あれ以降、南蛮の者たちからの催促が凄まじい。直接言われぬが、遠回しに言われるのも、いい加減疲れたわ」
「いっそのこと跳ね除けてしまえばよいのではございませんか?」
「文化的な交流を閉ざすわけにはいかぬ。あくまでこの件に関して慎重であるという立場をとり続けねば、断交はこちらの望むところではない。しかし一方で伴天連の信徒らが勝手をし始めていることも事実。早急な政教分離、それと寺社諸法度の発布をせねばならぬ」
「崇伝がどれだけ上手くやってくれるか。それにかかっておりますな」
大きくため息を吐かれた公方様は、ほとんど横になったような状態で湯飲みに手を伸ばされた。
そして口元からわずかに垂れる茶を気にせず、グッと飲み干してしまう。
「行儀が悪うございます。誰かに見られたら、将軍家の威光に関わりますぞ」
「誰もこの部屋にはこぬ。義任もこのような体たらくを外に漏らしたりはしないであろう。そう信じて、ここに通っているのだ。供も連れずにな」
「それは理解しておりますが」
最近になって、公方様がこの部屋へ足を運ばれる頻度が増えている。それだけ政務に追われているという話なのであるが、公方とその右腕では抱える負担があまりにも違いすぎる。
せめて今だけは兄弟という近しい関係で、その疲れを癒してさしあげたいのだが、そう簡単な話では無いのだが数日前より痛感したばかり。
「そういえば政孝の母君が亡くなられたと、範以を介して知らされた。葬儀は質素にすませるようであるが、政豊は国許へ戻るとのことである。堺での一件により、範以らを長らく引き留めることになってしまったが、祖母の最期に立ち会えぬとは、政豊には悪いことをしてしまったな」
また「はぁ」とため息をこぼされた。
「かつて駿河に匿われていたころ、私も何度か母君と話をする機会があったのだが、それはもうよくしていただいたのだ。今の立場がなければ、間違いなくお礼の言葉を伝えに行っていたであろう。それがただただ残念でならぬ」
「公方様が駿河で匿われていたころですと、私も平島で閉塞していたころでございますね。そういえば駿河でのお暮しについて、あまり聞かせていただいたことはございませんが」
「そうであったか?まぁそなたが我が右腕となった頃には、幕府もそれなりに存在感を取り戻した頃であったゆえ、ゆっくりと話すような機会も無かったでな。今度、夕餉をともにいたそう。その時にでも互いの昔話でもいたそうか」
「それは名案でございますね。私も平島での暮らしの変化について、公方様に…。いえ、兄上にお話ししたいと思っておりました」
「ならば父上のことについても聞かねばならぬな。きっと私のことを心配してくださっていたはず」
「…その話は夕餉の際にするには重うございます。また別の機会にでも」
実際のところ、父上の動揺ぶりはすさまじかった。織田と三好が畿内で争い、一度目の将軍であった兄上が消息不明となったと平島に届いた時、間違いなく殺されたと思われたのであろう。
将軍は日ノ本に2人もいらぬ。真っ向から対峙した限りは、負けた側は消される運命にある。それこそ逃げ延びることが出来なければ。
兄上には父上ほどの運がなかったのだと、平島の誰もが諦めた。相次ぐ子らの死に、父上は正気でいられなかった。いられるはずがなかった。
このような話、とても夕餉の際に語ることが出来るものでは無い。せっかくの飯もおいしく感じることなど出来なくなってしまう。
「ふむ、ならば仕方ない。父上の話はまたいずれ、な。ところでその一色の話であるが」
「幕臣らは良い顔をしておりませんが、私は賛成でございます。児玉家との縁談。これからのことを思えば、喜ばしい話ではございませんか」
「あの者たちは今川がどうこうではなく、ただ一色の発言力が高まることを嫌がっておる。私とて権力の集中を望んでいるわけではないが、あの婚姻で利があるのは決して両家のみではない」
先日、今川家当主である今川範以様と毛利家名代の穂井田元清から申し入れがあった。武家諸法度に従い、両家の婚姻の許可を幕府に求めてきたのだ。
当人らは一色家当主である政豊と、毛利の山陽水軍の一角児玉家の娘である鶴姫である。今川と毛利の関係はこれまで随分と希薄であり、なんならかつての毛利による海上封鎖政策で関係は悪いとまで言えるほどの間柄であった。
しかし毛利・織田間での同盟締結により、両家の敵対関係に終わりを迎えた。しかし良好な関係構築がされることもなかったわけである。
今回の婚姻申し入れは、日ノ本の有力大名同士の結びつきをより強固なものにするための一手であり、一致団結を目指す幕府としても喜ばしい話であった。
が、一部の幕臣らにしてみれば面白い話ではなかったようである。個人の感情が国益に勝るはずなど無いというのに、それを理解していない者が幕府にもまた多すぎるのだ。
「異国との交易の話であるが、それこそ倭寇のような輩に我が国を名乗って好き勝手されても困るゆえな、やはり許可証を発行すべきであるという話でまとまりつつある。これは関白殿下も支持しておられ、帝もそれがよいとお考えであるとのこと」
「ご先祖様に倣うわけでございますね」
「本来であれば勘合という形がよいのだが、そこまで相手に求めることも出来ぬであろう。ゆえにせめて日ノ本に属する者による国益を損なう行為だけは監視せねば」
私がうなずけば、満足そうに兄上も頷かれる。
「しかしそのためには水軍衆の強化は間違いなく急務となろう。堺からの報せによれば、ここ最近は南蛮の船もやけに壊れた状態で入港してきているという話も聞く。明らかに日ノ本近海で何者かが暗躍しているのであろう。そういった者たちに備えなく立ち向かうは愚かなことよ」
「そこで日ノ本最強と謳われる一色の水軍と、瀬戸内の守護者と呼び声高い児玉家の水軍を協力させるのでございますね」
「その通り。両家やそれに連なる者たちの協力、さらにあのいんぐらんどの者たちの協力があれば、より精強な水軍を作ることも出来るであろう。いずれ水軍も国家の帰属となる日がくることを思えば、今のうちに打てるだけ手を打っておきたいというのが、公方としての本音であるゆえ、あの婚姻だけは何としてもなさねばなるまい」
「しかしそうなりますと、今川家の婚姻関係はすさまじいものとなりますな」
「陸奥の主となった伊達家当主伊達政宗の実弟に北関東の有力領主那須の娘が今川家の養女として輿入れ、今や日ノ本最大とも言われる佐渡の鉱山を抑える上杉家には武田の娘を養女として輿入れ、犬猿の間柄であった織田家から正室をとり、大友家の娘を臣従の証として側室に迎え、加えて今川・毛利、互いの水軍筆頭同士の縁談。そして我が倅の奥も忘れてはならぬな」
思わずため息がこぼれた。
これらの婚姻は全てが今川家に利するものばかり。それも政略での婚姻だというのに、どこも円満な関係を築いているという。
「この婚姻が決して悪いようにならぬというのは、過去の今川の婚姻事情からも分かることであろうに」
「理解していないわけではないと思います。ただ認められぬのでございましょう。すでに京にいない御方が常に頭の中をよぎっているのでございましょうな」
「それならばそばに置いていても、そうでなくとも変わらぬではないか。たしかに幽斎もよくやってくれてはいるが、あの者では周囲の反発を完全に抑え込むことが出来ぬ。それでも公家衆を上手く使ってはいると思うが」
「蟄居は今川家が独断で決めた処分でございます。これに公方様が口出しすることは」
そう伝えれば、ため息交じりにまた姿勢を崩された。
「反発は必至。政孝の立場を悪くはしたくないゆえ、自重いたそう」
「それがよいかと」
あの男は生涯にどれだけの敵を作るのか。兄上でなくともため息が出てしまうわ。
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