970話 御家騒動の回避
伏見今川屋敷 一色政孝
1589年夏
数日前に指月伏見城の主である織田信秀様といくつかの取り決めをした。
その中で最も重要な取り決め。それは織田家中の権力争いを避けるため、そのキーマンとなりかねない帰蝶様を今川の屋敷でお預かりするということである。
そして今日、帰蝶様が信長に扮した信照様とともに今川屋敷へと入られる。周囲はいつものように信長が今川屋敷に入ったとみているはずだ。病没したという噂を信じている者達をどうにかだませることが出来ればよいのだがな。
「政孝、帰蝶様のことよろしく頼む」
「かしこまりました。信長様と交わした約束もありますので、帰蝶様の御身は必ず私が守らせていただきます」
「心強いことだ。しかしあまり無理をするでないぞ。信秀の話によれば、織田の一門が動く可能性があるとのことだ。ただでさえ兄上が表舞台から降りられて以降、織田の特に畿内での影響力に陰りが出て来ている中で、そのようなくだらぬ争いなどしている場合では無いのだが」
「誰かしらに背中を押されることもあるやもしれません。本来は無いはずの野心を煽られれば、意外と人はその気にさせられてしまうもの。そういった者ほど、自身の心を制御できませんので」
「俺もそう思う。それを制御できている内は良いのだがな」
思い当たる節があるのか、信照様の視線がいっそう厳しいものへと変わる。
俺も数人思い当たる節があるが、やはりそれらは大きな厄介ごとへと発展するものだ。出来ることならそのような暴挙には出て欲しくないものであるが、それは信長の死が表沙汰になった際にようやく明らかになることであろう。
どれだけ影響力に陰りが出たとしても、日ノ本の中心部を支配しているのは織田家であるからな。信長という絶対的な存在がいなくなった今の内にすり寄りたい。お近づきになりたい。あるいは取って代わりたい。そんな邪な考えを持つものは必ず出てくるであろう。
織田家当主の養母であるという帰蝶様も狙われる危険がある。信長が生涯側に置き続け、後を任された信忠すらも遠慮するような人物であるのだから当然だ。
だから信秀様は、織田領内の伏見にありながら治外法権的な立場にある今川屋敷へ帰蝶様を送り込まれたわけである。屋敷内であれば、今川の裁量で好きに出来るゆえに。侵入者に対して強気に出ることも出来る、というわけだ。
「帰蝶様も、最初のうちは居づらいやもしれませんが、遠慮無くくつろいでいただければ幸いでございます。屋敷にはいつも誰かしらの人がおりますので。ですがこのような状況ですので、あまり外出は出来ぬやもしれませぬが」
「気遣いは無用です。私は織田のために生きると、殿の元に嫁いだ日から心に決めておりましたから」
口数は少ない。
そもそもあまり言葉を交わす機会など無かったわけであるが、やはり信長の死は大きな傷を残している。
そのようなことは改めて言うことでも無いが、やはりこればかりはどうしようもない。俺ではどうにも出来ぬ事であるし、帰蝶様のお心をどうにか出来る男はすでにこの世を去っている。
時間が解決するか、あるいは子がどうにか出来るか。本人にそこまで気遣いが出来るかどうかは分からぬがな。
「人の出入りで勘繰られては困るゆえ、屋敷の侍女らは連れて来ておらぬ。色々迷惑をかけるが、その辺りもよろしく頼む」
「かしこまりました」
つまり帰蝶様は身1つで今川屋敷に来られたわけだ。
信長が最期まで気にするはずだな。
あのときは生涯の伴侶を亡くした帰蝶様が何かよからぬことを考えるやもしれぬという話であったのに、実際はこういったもっとリアルで血生臭い話であった。あの織田家がここまで身内に気をつけねばならぬようなことになるのかと、改めて考えてしまう。
信長は身内で争いを生まぬように、うまく気を配っていたはずであったのだがな。
「一色殿。先ほども申しましたとおり、私に対して気遣いは無用です。それよりもしばらくは1人でいたい気分なのです。世話をしてくれるものは最低限として、放っておいてくださればよいので」
俺は信照様を見た。
小さく頷かれたゆえ、帰蝶様にも「かしこまりました」と返す。まことに時間がこの傷を癒やしてくれるのか、俺にはまったく見えないものであった。
紀伊国雑賀 浮雲
1589年夏
何度か賊に襲われはしたものの、一色様が派遣してくださった護衛の方々のおかげでなんとか紀伊の雑賀にたどり着くことが出来ました。
この地は傭兵稼業を営む雑賀衆の自治領とのことで、何かあっては困るとみなには十分気をつけるようにと言い伝えていましたが、それは杞憂だったと思い直しました。
なんせ町は規律のもとで非常に落ち着いており、当初心配していたならず者らもいない様子。
特に上の身分が武によって弾圧している様子も無く、さながら商業都市堺のような雰囲気です。
「かぁ~、この町は相変わらず鉄臭いな」
感心して周囲を見渡していると、側にそれはそれは大きな身体の御仁が並ばれます。この御方こそが、私達一団を守ってくださっている慶次様。
たくましい腕からふるわれる大太刀は、賊の襲撃を瞬く間にはね除けてしまいます。すでに何人かの娘らが、その武勇の虜にされかけてしまっているようで、団の責任者として紀伊に畠山様のもとに向かっている私は気が気でありません。
「慶次様は何度か雑賀を訪ねたことがあるのでございますか?」
「あぁ。主が雑賀には執着していてな。何度か供として足を運んだことがある。だが雑賀もいくつかの派閥が纏まって出来ているからな。主を快く思わない連中がいてもおかしくないということで、決して側を離れることが出来なかった。つまり雑賀の町並みを堪能したのは今日が初めてということだ」
「そうなのですね。私は初めてです」
「色々なところに興行に出向いていると言っていたが、それでも雑賀は初めてか」
「雑賀の方々は興行よりも、ということでございます。娯楽よりも傭兵・火器、そんな印象を持っておりましたが、あながち間違いでは無かったようで」
「なるほど。たしかにその印象は間違いでは無い。奴ら、酷い火傷を負おうが、腕が吹き飛ばされようが、それでも火器の研究を止めぬ変人ばかりであるからな。舞踊どころか、その類いの娯楽に興味を示す暇など無いのであろう」
そう言いながら、慶次様はチラッと私から視線を外されました。
その先には、立派な衣装を身に纏った男性が立っておられます。まだお若いようですが、随分と険しい表情をされており、今の慶次様のお言葉が気に入らなかったことが容易に想像出来てしまいました。
私は慌てて謝罪しようとしましたが、慶次様は何食わぬ顔でその男性に近づかれます。制止しようとしたとき、慶次様は笑顔でその方の背中を叩かれました。
「久しぶりではないか。随分と大きくなったのではないか!?」
「おかげさまで。あの戦を経て、今のままではいかぬと考えを改めたのでございます。ですが此度は奥羽への戦に出ることが出来ませんでした」
「頭領殿が出陣されたと聞いている。つまりお前は信用されて留守を託されたということだ。少しばかり茶を飲もうではないか。もちろん、頭領代理殿のおごりでな」
私の事などすでに頭にないのか、あるいはついてこいと言っておられるのか。
しかし頭領代理と慶次様がいわれていたということは、あの御方は鈴木家の嫡子様ということになる。
嫡子様にあのような無礼な態度はよいのでしょうか。
御武家様との関わりは幾度かあれど、慶次様のような方は初めてでどうにも困惑が勝ってしまいます。
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