377話 頼り頼られる

 今川館 一色政孝


 1575年夏


「では三河での混乱危機は回避したということなのであろうか」

「おそらく。ですが今回の一件からも分かるように、三河にはそれだけの隙があったということに御座います」

「そうであるな。しかしあの和睦条件では甘かったということか・・・。本願寺もそこにつけ込んできたと」

「詰めが甘かったと反省しております。せめて武士の中だけでも厳しく取り締まっておくべきにございました」


 今川館のとある一室。

 人払いが成された部屋にて、俺は氏真様と話をしていた。話題は三河での一連の事件のことと伊賀の忍びのこと。

 表状は何も公表されていない。当然だろう、秘密裏に処理された事案であり、そもそも何もなかったのだから。


「家成からも病死であったと報せがあった」

「ならば間違いありません。石川清兼殿は病死にございます」


 前のめりになっていた身体を僅かに起こされた氏真様は、一度軽く息を吐かれた。

 その表情にはどこか安堵したものがある。

 此度の三河での動きは、それでも今川にある程度の緊張をもたらしたこととなったわけだ。

 大事にならなくて安心した、それがおそらく知っている者達の胸の内であろう。下手をすれば織田との関係まで切れる恐れがあったのだから。


「実は市が勘づいておってな」

「市様が」

「信長殿にしきりに文を送っておったのだ。その返答に『何があっても今川との手切れはあり得ぬ』とあった」

「それは嬉しいことにございます。間違いなく三河で起きたことを知っておられる上での返答にございましょうし」

「であれば良いのだ。そしてこれだけ信用されているというのも気分が悪いものでは無い。だが織田家は現状相当に厄介なこととなっていることも事実である」

「確かに。西の大名らは思ったほど好意的に織田様の上洛を受け入れてはいない様子」

「やはり義助様を京から追放したというのが悪い印象を与えているようである。かつての三好家と同じであるな。そして今の公方様からの悪評もある」

「織田様は2度幕府に楯突く。そう思われているのですか」

「その通りである。京から離れれば離れるほどに畿内の動向には疎くなるのは仕方が無いことよ。であるが、それ故に自ら情報を発信しておる公方様は厄介な存在なのだ」


 畿内の情勢に詳しくない大名らは、公方様からの文が情報を得る数少ないツールとなる。それには信長の悪逆非道な行動から、義昭を蔑ろにしている様などとにかく信長が悪いように書かれているだろう。

 それだけ受け取った大名らからすれば、そうとうに畿内の大部分を支配していている信長という男が悪い者であるのであろうと勘違いしてもおかしくはない。

 播磨以西を思うように支配出来ないのはそれが原因なのだ。


「そして我らもそれの影響を例外なく受けることとなる。麻呂も公方様には恨まれていようでな」

「蘆名が公方様と繋がっていることは確実にございます」

「佐竹がそう動くやもしれん。伊達がこちらに味方したというのは、すでに知られていようからな。なんせ人質まで差し出してきたのだ。蘆名の後継者に、と密かに推されていた者がな」


 つまり俺がいない間に伊達家はその覚悟を決めた後、人質を送ってきたということだ。


「佐竹と蘆名は例の一件も含め、陸奥の南部を巡って争っておりますが」

「それよりも前にこちらを気にせねばやってられぬであろう。越後も安定しつつある。関東も安定しつつある。そして北関東の諸大名らで結成した同盟も、里見と千葉の領地争いを発端に瓦解しつつある。佐竹はその騒動を自力で収めることが出来ぬであろうでな」

「功があまりにも少なすぎました」

「蘆名が陸奥侵攻をほのめかしたおかげである」


 やはり史実と違って織田包囲網に力は無さそうだ。

 あちこちに亀裂がある。例え佐竹が蘆名と一時休戦してこちらにあたったとしても、背後には伊達家がある。

 その北にある葛西や南部が厄介であるが故、あちらが公方と協力する前にどうにか佐竹や蘆名を叩いておきたいところではあるが、それはまだ全くどうなるか分からない。


「先日泰朝より報せがあった。近く里見と正式に話し合いの場を設けると」

「ようやく話が纏まりそうにございます」

「うむ、奴らが今求めているのは房総半島全域の支配。それ以上は今の里見を思えば難しいことをちゃんと理解している」

「佐竹と組んでいても、千葉がある限りは難しいと理解したのでしょう」

「故にもう一度こちらに引き込む。ただし次はしっかりとこちらに縛り付ける条件でな」


 先日義助様に氏真様は言われていた。

 北関東の大名らは信用出来ない、と。それは鎌倉公方家の扱いをどうするのか、という話から出たものであった。

 里見の手にも鎌倉公方家の血を受け継ぐ者がいる。小弓公方と名乗っているが、今の立場は相当に微妙なものとなっている。

 形上だけで言えば、今川の手の内に鎌倉公方家だった者達が今もいる。つまり両家は対立関係にあるわけだが、そこを円満な状況に持っていくことが出来れば、関東における公方家の存在は1つに纏めることが出来るだろう。

 それこそ義助様の助言通りにすれば。


「果たして里見は乗ってきましょうか」

「乗らねば滅ぶだけである。そのことを分かっていれば、誤った選択などせぬであろう。里見自慢の水軍も我らの前では手も足も出なかったのだ」

「あれはあまりにも出来すぎにございました。北条の水軍も沈め、里見の水軍も沈めた。そのこと領内でも結構な大事であったようで、連日お祭り騒ぎであったようにございます」

「まことにいつでも賑やかであるな、大井川領は」

「私自身も驚きにございます」


 用意されていた茶をここに来て初めて飲んだ。話に熱中しすぎていてすでに冷め切っている。

 俺は猫舌であるからむしろこっちの方が飲みやすいが。


「そういえば伊達家は臣従の証を差し出したと申されておりましたが」

「それがな・・・」


 言葉を句切られた。何か心配事があるのかと顔を上げると、氏真様は笑いを我慢されているようであった。

 いったい何かしでかしたかと、周りを見てみるが何も無い。

 俺が困惑していると、氏真様はひとしきり肩を震わせた後で顔を上げられた。


「人質を差し出し、正式に我らに与すると伊達輝宗がやって来た際にその顔を見たのだ」

「顔にございますか?して何か」

「その顔には無数のひっかき傷があってな。みな唖然としておった」

「ひっかき傷?まさか道中何者かに襲われたと」


 もしそうであれば笑い事では無い。むしろこちらの安全管理が疎かとなっていたとして、叱責しなければならない事態である。


「襲われたのは城内よ、それも伊達のな」

「・・・伊達の?ではその傷は」

「輝宗の正室にやられたと申しておったわ。竺丸を人質に出すかどうかで相当に揉めたようである。家臣の制止も聞かず、正室は輝宗に詰め寄ると思いっきりその頬を引っかかれたと」


 また「ククッ」と肩を震わされた。


「恐妻であるとは有名であった。隣国最上との戦では、両陣営の真ん中に向かい互いの兵を退かせたというくらいである」

「これは竺丸に関して下手な扱いをするわけにはいきません」

「まことにな。下手をすれば伊達が滅びかねぬわ。市も春もそこまで気が強いわけでは無い、余所の話と笑い事で済ますことが出来て麻呂は幸せである」

「・・・確かに」


 俺の場合は母が義姫に近いところがある。

 まぁ主家の娘であるという部分が相当に強いのだろうが、それでも父は結局最後の最後まで母に頭が上がらなかった。

 それは家中でも同様だ。というよりも、父ですら頭が上がらないのだ。

 家臣の誰もが同様になるのは仕方が無い。

 唯一母を困惑させたのは、大叔父であった豊岳様と当時幼かった高瀬くらいか。


「して輝宗殿は何と?」

「命をかけて預ける、と申しておった。麻呂には二重に意味があるように思えてならぬ」

「私も同感にございます。竺丸に何かあれば、伊達家は滅びましょう。決して冗談ではなく」


 家中を混乱させた上で、最上に攻め込ませる。北の大崎や葛西まで動かすかもしれない。

 義姫はそれだけの行動力がある。そこは下手な大名よりもよほど評価出来る点であった。武力を持たずとも、存在感を存分に発揮するその姿・立ち回りは、今の幕府が真似すべき点であるようにも思える。出来ぬであろうが。


「政孝も一度、竺丸に会ってみるが良い。まだまだ幼いが、それでもしっかりしておる。流石に蘆名の次期当主へと推されていただけはあるの」

「まことにございますか?それでは帰る前に一度顔を見ておこうと思います」

「それが良い。後で案内させよう」

「ありがとうございます」


 俺が全ての報告を終えたかと確認していると、氏真様はまだ何か言いたげにこちらを見られていた。

 それに気がついた俺も姿勢を改める。


「話を戻すことになるが、信長殿は現状あまり良くない立場に置かれている」

「はい」

「近く浅井家と共同で能登へと兵を出すようである」

「そう聞き及んでおります」

「そして上杉による佐渡平定」

「はい、そちらも直に行われるかと」

「信濃衆にはこれらの援軍に向かって貰いたい。だが佐渡に関しては慣れぬ海戦である者が多いであろう。故に上杉家が佐渡に拠点を設営してからで良い。海の安全が確認された後に援軍を向かわせたいのだ」

「それを上杉様が認めましょうか?家中に他勢力を引き込むことを避けられてるというのが最初の話にございましたが」


 だから技術支援という形で一色水軍の者達を派遣したはずであるが。


「先日越後より人があったのだ。どうやら佐渡には、やはり蘆名の関与があると」

「なるほど・・・」

「人手が足りぬということである。もちろん政孝には別で重要な任がある。故に信頼の出来るものに一任しても良いが」

「かしこまりました。私が向かうことが出来るかはさておき、信濃衆からの援軍は用意いたします。両戦線で戦が起きる頃には兵を動かせるように用意いたします」

「あちらこちらにすまぬな」

「いえ。頼られるというのは悪いものではございませんので」


 氏真様が申されていたとおりだ。人から頼られるというのは、そう悪いことでも無い。

 俺の評価云々では無く、一色の立場を維持するためにも功を積み重ねておかなくてはならない。

 俺も流石に不老不死ではないであろうからな。


「長く引き留めて悪かったの。また忙しくなるであろうから、此度はここまでとする」

「かしこまりました」

「しばしこの部屋にて待て。竺丸の元へ案内する人を寄越そう」


 その後、俺は竺丸と会った。

 鶴丸よりも幼いが、かつての直政を彷彿とさせるほどしっかりとした顔立ちをしている。一度会っておけと言われるのも納得だった。

 だがこれでいよいよ東北への進出が決定的となったわけだ。伊達が滅びる前に佐竹と蘆名。

 再び動きがあるであろう。

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