369話 最期の雨

 大井川領氷上屋敷 一色政孝


 1575年夏


 今日は雨だった。

 梅雨が近いのだろうか?雨の匂いが変わってきたように感じる。

 そんなとある日、俺は大井川の側にある氷上家の屋敷を訪ねていた。直政は城に残し、代わりに時真を伴っている。

 目の前にいるのは、かつての頃とは随分と様子が変わってしまった時宗。


「わざわざ雨の中を来られずとも」

「雨だったから来たのだ。城に籠もっていては気が沈むでな」

「老いぼれを相手にする時間も無駄ですぞ。今も殿の力を欲している者達はおりましょう」

「大丈夫だ。かつての一色と比べても、随分と人が増えた。もう四臣に頼り切ることも無かろう」

「それは嬉しいような、寂しいような、にございますな。では家臣筆頭の立場もお返しでしょうか」

「それはない。四臣に頼り切ることは無くなったが、家臣らのまとめ役にはやはり必要である。時真も大井川領で昌友とともに良くやってくれている。道房は倅と共に福浦で活躍し、之助は俺の元で戦に励んでくれている。佐助も鶴丸の傅役として立派にここまで育ててくれた。四臣の働きは今も変わらず大きいままよ」

「そうでしたか。それを聞いて安心いたしました」


 一時は生死の境を彷徨ったと聞いていた時宗。だが今はこうして話をすることが出来るほどまで回復していた。

 病というわけでは無い、らしい。だがそれは時宗が勝手に言っていることであり、時真は病であると言っていた。

 本当に一時は危なかったのだと。

 俺を心配させまいと言っている嘘だと言うことなどわかってはいるが、そのようなことを時宗に直接言うのも違うだろう。

 だから俺はこれまで通りに接する。


「しかしまさか武田、上杉に続いて北条をも降すとは」

「上杉に関しては降していないがな」

「似たようなものにございましょう。越後以外の土地を放棄するとは随分と思い切ったことを。上杉様の全盛期を思えば、なかなか想像出来ない話にございますな」

「あぁ、だがおかげで信濃の大部分を手中に収めることが出来た」

「儂は正直、桶狭間の敗戦で今川家は転がり落ちるのではないかと思っておりました。ですが結果は持ちこたえるどころか、かつてよりも大きな勢力を持つこととなった。儂の目は曇っていたようにございます」

「俺もそうだ。あの状況からここまで大きくなれるなど思ってもいなかった」


 そう言うと時宗は僅かに笑った。

 俺が不審がると、今度は我慢すること無く声を上げて笑っていた。


「まことにございますかな?あの絶望的な状況で、常に前を向いていたのは殿だけにございました。一色家中でも今川家中でも」

「だがそれが最初は悪いように作用したがな」

「三河の安定を図るため、松平様との婚姻関係を結びましたな」

「裏切り者として見られたであろう」

「それで言えば織田様とのこともございます」

「そちらのほうが不信感を持たれたか。だが結果、織田との同盟は今川にとって利しかなかったわけだ」

「殿の先を見通す力には感服いたします。ここまでのものは先代の殿でも持っておられなかった」

「父の背をみて培った力だ。似ておらずともな」


 ひとしきり笑った。こうして昔話が出来るのは時宗とくらいであろう。

 他の者で昔を知るものはみな忙しいからな。あとは圧倒的に余所からの者が多くなっている。

 こうした話は例え重治であっても出来ない。


「そういえば倅に聞いたのですがな、武田に北条の姫を送られるそうですな」

「随分と耳が早いな。強引に聞き出したか?」

「いえ、こうして布団の中でずっといると退屈なもので。なにか面白い話は無いかと尋ねたのです。すると近く意外な婚姻が続くと聞いたので、詳しく話をさせたのです」

「それは強引なのでは無いか?」

「日常にございます」


 時宗は特に気にした様子も無く笑っていた。

 だがこれは嘘では無い。俺が駿河から戻って来た日、城に入った直後に芳姫から聞いた。

 不安がる鳳殿を説得し、武田・北条両家の関係修復のために嫁入りする覚悟を決めたことを。勝頼殿の人となりは俺が保証した。

 あの御方は少なくとも下衆では無い、と。


「そして上杉に武田の姫ですか。どれもありそうで無かった話ですな」

「あぁ、だが着々と足場固めが進んでいる。それより気になるのは三河だ」

「三河・・・。松平家絡みですかな?」

「そうだな。大いに関わりがある」


 実は落人よりとある報せがあったのだ。三河国内で再び不穏な動きがあるとな。

 それが何であるのか、大方目星はついていた。三河には一度禁止された本願寺の僧侶が再び流入しているとの話があるのだ。だが当然坊主の身なりをして入ってくるわけが無い。

 変装しているのであろうが、それでも落人は嗅ぎつけた。

 だがそれと同時に畿内の忍びまでもが入り込んできているようなのだ。甲賀か伊賀か、まだ明らかとなってはいない。


「浄土真宗に熱心な者達が再び本願寺にたきつけられている疑惑がある。だがそれは一揆を狙ってのものでは無いようだ」

「というのは?」

「松平が古くより領有しているのは岡崎周辺であるが、関東仕置きのことがあり当主である家康は江戸城へ入った。代わりに岡崎城を守るのは倅の信康なわけだ」

「立派に跡継ぎとしてやられているとお方様より聞いておりましたが」

「その周りが密かに動いている、という話がある。奥の徳姫は織田家の姫」

「岡崎で織田家に寝返る動きがあると?」

「落人が調べた限りでな。だがそれもどこまでが真実で、果たしてなぜそのような事態に陥っているのかも全く不明である。そしてそのことを織田家が知っているのかもな」

「もしその話が事実で、再び今川家を離反するようなことにでもなれば」

「今度こそ松平は許されぬであろう」


 松平にはかつての一向一揆で一向宗方に加担し、後に赦された者達が一定数いる。

 それらに目を付けられた可能性は十分にあった。その真意は未だ分からぬが、三河行脚をしてみれば何か見えてくるとは思っている。

 岡崎城に行くのは信康の様子を見るため。そしてその周りの状況も。

 出来れば岡崎城に残っている瀬名様とも話をしておきたい。何かあるのであれば、俺からも手を打っておくべきであるし、家康の真意を確かめなければならない。

 もし、もし万が一にも再び今川を裏切ろうというのであれば、さすがにもう容赦は出来ない。

 織田との関係悪化は最も望まぬ事であるのだからな。


「殿が直に向かうはあまりに危険であるように思いますが」

「ならば誰がこの重要な役割を果たす?見誤ったとき、誰がその責任を負うのだ。俺が向かえば俺の責任に出来る」


 責任の所在を明らかにしておくのは大事なことだ。特にこれに関しては過ちが赦されない。

 完全にデマという選択肢を除けば、どう転んでも人が死ぬであろうからな。


「俺は近く美濃へ向かう用がある。そのついでに少々情報収集でもしてこようと思う。三河の各城に寄るというのは、直前まで伝えぬつもりでいるから隠し事も出来ぬであろう」

「・・・殿、どうかご無事でお戻りくだされ」

「分かっている。もし俺が死ねば、松平討伐にまで事が発展するであろう。そうなればもう今川は終わるかもしれんな」


 俺が死んだことで失うものの話では無い。俺に対しての評価の話では無く、今川家中は再び疑心暗鬼に満ち溢れる。かつての今川家のように。

 三河をその疑いの中心として、どんどんとその波は大きく広がっていくであろう。

 世代交代が進みつつあるこの状況で、いったいどれだけの者が落ち着いて対処出来るのか。

 だから俺が死ぬわけにはいかぬし、松平を潰すわけにもいかない。


「真相は探り出す。俺も生きて戻る」

「・・・殿はいつも危険な橋を1人で渡ろうとされる」

「それが俺の役目だ。誰にも任せられぬ」

「そう言われると思いました。ですがこれだけは」


 俺は時宗の言葉を待つ。


「今川様に殿が必要なように、一色家には殿が必要にございます。鶴丸様が今当主となれば、一色家の先行きは不安にございます」


 それが鶴丸を蔑む発言で無いことは、敢えて言うことでも無い。

 それだけ俺が担っているものが大きいという話である。今川家中でも一色家当主としても。


「わかっている。言ったように俺は無事に戻る。三河行脚でも美濃での会談でも」

「無事に戻られる日をお待ちしております」

「あぁ、次に顔を見せに来るのは美濃から戻ったときだ。それまでは生きておれよ」

「鶴丸様が元服するまでは死ねませぬ。殿の帰還をお待ちしております」


 時宗はそう言っていた。

 だが俺が大井川領から三河へ向けて出立した数日後、容体は急変したようであった。

 父の代より一色家に仕え、家臣らの筆頭として長きにわたり最前線で活躍した男はその生に終わりを迎える。

 享年は71歳。原因はやはり病であったらしい。

 だがそれを知ったのは、三河に入った頃。

 遠く離れた三河の地で俺にできることは、大井川領がある方へ向かって手を合わせることだけであった。時宗は最期まで一色家の行く末を案じていたという。

 時宗が安心して旅立てるよう、奮闘しなければならない。それが死の間際に付き添えなかった俺が出来る唯一の事なのだ。


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