326話 甲州透破の元頭

 信濃国志賀城付近武田本陣 一色政孝


 1573年秋


「政孝殿、此度の馳走まこと忝い」

「なにを仰られます。我ら共にこの地を守ると約束した仲ではございませんか、勝頼殿」


 何故俺が佐久郡に来ているのかというと、武田からの要請があったからだ。

 何でも今や北条の属国に近しい立場と強制的にさせられた山内上杉家が、佐久郡に向けて兵を動かしている、と。だが未だ武田は佐久郡で迎え撃つ支度が済んでおらず、今川家信濃衆に対して援軍を求められた。

 俺は諏訪頼忠殿や保科正直殿、それと先日今川家臣に迎えた出浦盛清殿ら領内整備が順調に進んでいる者を選抜してこの地へとやって来ている。

 藤孝殿には新たに家臣になった方々の世話役を任せており、北信濃の要所に配した方達は一応上杉家の警戒に当たって貰っている。

 葛尾城は高広殿に託した。

 あのような重要な地を預けることは一種の賭けであるが、俺としては一応高広殿を重視しているという配慮のあらわれでもある。そう感じ取って貰わなければ困るわけだ。


「しかしあまり兵自体は多くないようで」

「その通り。私の目となる者達が探っているのですが、本気でこの地を攻め獲ろうという気概が感じられません」


 机を囲んで武田家の大将である勝頼殿と今後の方針を話し合った。

 しかし久しぶりだな、軍議を行う上で俺に主導権がないというのも。別に主導権が欲しいわけではないが、信濃を任される前よりそういう立場にいたことを考えれば、随分と楽であるように感じてしまう。

 気を引き締めなくては、この場にいない道房や佐助に叱られような。

 今は俺が引き締める立場にならなくてはならぬ歳であるというのに。


「ですが万が一には備えておくべきでしょう」

「確かに。ただそうなると、より鮮明に敵方の動きを知らねばなりません。今のままでは少々情報不足かと」

「・・・我らはこれ以上人手を割けませぬ。今は各城の守りで手一杯ですから」


 俺も緊急であったがために栄衆の動員は出来ていない。そしておそらくしばらく難しいと思われる。

 先日危険を承知で常陸や会津へ潜入するよう命じているからだ。だが物見を放つにしても、上野は慣れない地。正直に言えばあまり情報収集の効率が良いとは思えなかった。

 そんなとき、誰かが陣の外にやって来たのが分かった。

 足音は2人か3人か。

 陣の外で見張りをしていた兵達が何事か確認していたが、勝頼殿の背後で事の成り行きを見ていた内藤昌豊殿が外へと出て行く。

 そして何事か話した後、陣の中に3人が入ってきた。

 1人は言わずもがな昌豊殿、そしてもう1人は盛清殿。だが最後の1人は知らない人物。


十郎兵衛じゅうべえではないか!?」


 声をあげられたのは勝頼殿。先ほど似たような流れを見た。

 ちょうど俺が着陣の挨拶に行ったとき、盛清殿を見て同じ反応をされていたな。だが当然それは恨みだとか憎しみだとか、そういうことではない。

 純粋に無事であったことを喜ばれていた。

 話を戻すが、俺は十郎兵衛の名前を聞いても誰かが分からない。

 事情が分かるのはおそらく武田家に関わりがある方だけなのだろう。俺の背後に控えていた昌続も誰か知っているようであった。


「昌続」

「はっ」

「あの方が誰か知っているのか?」

「はい。それは」


 そう言いかけた昌続はそのまま口を閉じる。椅子を吹き飛ばすほどの勢いで立ち上がった勝頼殿が改めて座られたからだろう。

 軽く謝罪を入れられた後、盛清殿と十郎兵衛と呼ばれた男はその場で片膝をつく。


「政孝殿にご紹介いたします。この者、かつて某と共に甲州透破の頭をしておった者にございます」

「甲州透破の?」

「その通りです。我が父はそれだけ今川家からの忍びに警戒しておりました。故にこの十郎兵衛に甲州透破の一部を預けて、妨害に専念していたのです。そして武田家が勢いを失った頃、父の命でその身を野へと放たれた。・・・十郎兵衛、父のしたこととはいえ、悪いことをした」

「勝頼様を恨む気持ちはありませぬ。もちろん御屋形様・・・、信玄様も同様にございます」


 十郎兵衛はここに来て初めて言葉を発す。

 そして俺に対して視線を向けた。


「お初にお目にかかります。一色政孝様、某、名を秋山十郎兵衛と申します」

「秋山?」

「はっ。ですがその名に意味はございません。かつての主である信玄様に頂いたものというだけのこと。元来忍びとして、名が意味を成さぬ事は一色様であればご存じのはず」


 十郎兵衛の話を聞いて、落人のことを思い出した。たしかに忍びに名は不要であると言っていたと頷く。

 それは良い。納得とかそういう話では無く、ただの挨拶に過ぎない。

 だがそれだけならば軍議の最中に陣中に通すだろうか?後でもよいはずであろう。


「この男に付き従っている者達が、山内上杉家の動向を探って参りました。これを手土産に再び仕官を願いたいと旧縁を頼って某の元に参った次第にございます」


 盛清殿の説明だ。もし今の話が本当であればお手柄もお手柄。大手柄と言っても良い。それほどに必要な情報をこの十郎兵衛は握っている。

 だが勝頼殿はわずかに難色を示された。

 その顔色を確認した十郎兵衛は眉間に皺を寄せる。もちろんそれも露骨なわけではない。


「如何されたので?」

「・・・十郎兵衛、気を悪くせずに聞いて欲しい」

「気を悪くするなど・・・。元より某がお願いする立場にございますので」


 わずかな沈黙の後、勝頼殿は口を開かれる。


「兄より家督を継承した後、我らは当然周辺国の情報を求めた。そのために諜報活動が出来る者の整備は急務であったのだ」


 北の上杉、東の北条。そして一瞬のことではあったが、南の今川とも敵対するおそれが当時の武田家にはあった。

 忍びの整備は確かに急務であったことだろう。


「故にすでにそれらの組織を作り上げてしまっている。望月様を信濃の巫女頭とした信濃巫らがようやく形となった。それに西山十右衛門らによって甲州透破もようやく再編することが出来た。今お主を再び迎え入れることは、この者達の混乱を招きかねぬ」

「・・・そうでございますか」


 そんな2人のやり取りを見つめながら、ふと疑問に思ったことがある。

 それとなく席を立って、昌続を再度呼んだ。


「如何いたしました?」

「少し聞きたいことがある。甲州透破に数人の頭がいたことは理解したが、何故秋山という男だけ武田より追い出されたのだ。少なくとも他の頭はそのような仕打ちを受けなかったのであろう」

「それは・・・」


 昌続は一度、勝頼殿らを見た。そして再度俺に視線を戻すと小さな声で続きを話す。


「十郎兵衛殿はご隠居様の命で今は亡き義信様に付き従っておりました。そして先ほども申されていたとおり、今川様からの諜報活動を妨害すると同時に逆に今川様の動向を探っておられたのです」

「なるほどな。だがそれが出来ると認められるほどに力量があったわけだろう」

「はい。しかしとある1つの情報が大きな混乱をもたらした、ということにされております。ご隠居様は義信様の責を軽くするためにそのように申されておりました」

「その情報というのは?」


 昌続は一度小さく息を吐くと、さらに続きを話す。


「美濃国境より織田様が信濃に侵攻してきた、というものです。その報せを聞いた義信様は迷わず美濃国境へと兵を向けられた。ご隠居様の制止も耳に入れられず」


 あぁ、確かにあった。あの一連の流れを全て思い出した。

 あの時、俺は岡部元信殿らと共に南信濃に侵攻していた。だがその最中、俺達も三河衆の報せで織田家の動向に気がつき、信長の東進を邪魔するために、南から信濃に侵入した別働隊はさらに兵を分け、小笠原氏興殿を臨時の大将として北上したのだ。

 あのとき、武田はみごとなほど信長相手に大敗した。織田はそのまま美濃国境に残り、その動き自体が陽動であったことをすぐに周知させる。

 俺は秀吉が密かに会いに来たためにその動きと目的を知っていたが、確かにあの出来事が俺達の信濃侵攻を容易にしたと言っても過言ではなかった。


「織田様による信濃侵攻という誤った情報を伝えたために南信濃の防衛は瓦解した。そういうこととされ、さらに南信濃における今川様の迅速な攻略の情報を得ることが出来なかった責も負うこととなり、十郎兵衛殿はその立場を追われたのです」

「故に他の甲州透破の頭であった盛清殿や、勝頼殿の側に従っていた西山某という者は武田家に残っているのだな」

「はい」


 そういうことであったのか。道理で恨む恨まないという物騒な言葉が出るわけだ。


「だがあまり交渉は上手くいっていないようだな」

「はい。甲斐一国となった武田家の現状を知る身としては、あまり人を抱えることは出来ません。それが例え忍びであったとしても」

「そうか。ならばちょうどよいか」

「・・・殿?」


 昌続からの問いの返事もせずに、俺は元の位置に腰を下ろした。その様子を怪訝な表情で昌豊殿が見ている。


「十郎兵衛殿と申されましたな?」

「はっ!」

「私が間を取り持ちますので、氏真様にお仕えするのは如何でしょう?実は今、北条との戦を控えておるのですが、今川家には独自に抱え込む忍びがおりません。このままいけば北条に従う風魔らにやりたい放題されてしまいましょう」

「・・・」

「それともかつての敵、それも今川家には仕えられませぬか?」

「そのようなことはございません!ですが・・・」


 十郎兵衛は一度顔を下に向けたが、一瞬だけ勝頼殿に視線を向けた。今この場で俺の提案に乗ることを武田家に対する不義理であると感じたのだろうか?

 だが勝頼殿はもう武田に組み込む気は無いだろう。意地悪とかそういう意味ではなく、養うことが出来ない故の判断であると明言されていた。


「遠慮はいりませぬ。今川家を支えていただくことは、すなわち武田家も支えることに繋がります。両家は今もこうして手を携えて共通の敵と戦っているのですから」

「十郎兵衛、私がこのようなことを申すのはおかしなことやもしれん。だが政孝殿の提案をどうか受け入れてはくれぬか?」


 勝頼殿も援護射撃をしてくださった。そして十郎兵衛の背中を盛清殿がわずかに叩かれる。色々なものに背中を押されたのか、しばらく考えた後、十郎兵衛は俺に頭を下げた。


「一色様、どうか我らを今川様へおつなぎくださりますようお願いいたします!」

「お任せを。こう見えても何人も殿との間を取り次いでいるので、その手の話をつけることは得意です」

「政孝殿、武田家の尻拭いのような真似をお願いして申し訳ありません。何から何まで・・・」


 勝頼殿に感謝されればそう悪い気もしない。

 何と言っても俺と勝頼殿は間接的に、とはいえ縁者であるからな。その縁をどんどん太くすることは、きっと良いことであると思う。

 とにかく此度は十郎兵衛の持ち寄った情報をもとに、山内上杉家への対処をするとしよう。

 その後に駿河へと送り届けて、仕官の願いをしなくてはな。

 ようやく栄衆の一部を氏真様の側から外すことが出来そうだ。

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