239話 権力に溺れし者
躑躅ヶ崎館 武田信玄
1569年夏
「調べはついたか?」
「はい。ご隠居様の言われたとおりにございました」
とある日の夜。信茂を離れの屋敷に招いたワシは、此度の成果を尋ねている最中であった。
「例の噂は御屋形様を支持している者たちが独断で流していたものにございます。甲斐の民は度重なる戦で疲弊しており、無用な混乱を招くことを嫌っております。それを狙ってのことであったのかと」
「ならば義信は関係が無かったと」
「私の調べる限りでは」
それならば良かったと素直に喜べぬが、だが一安心はした。それは母が違うとはいえ、兄弟を排斥しようとする馬鹿者がいなかったことにである。
「それで誰が関与していたのだ」
「主だった方々にはなりますが、主犯とされているのは飯富虎昌殿、それに付き従ったのが
「おそらくそうであろうな。息子らはあの噂について知っておるのか?」
「はい。ここ数日は険悪な雰囲気にございます。どちらも警戒している様子」
信茂の報告にワシは思わず頭を抱えてしまった。
先日の駿河へ向かった一件も、勝頼を支持する者らは勝頼の功をあげるために。義信を支持する者らがそれを許したのは、どうせ上手くはいかぬと踏んでいたからであろう。
甲斐は窮地を脱したが、武田は未だ混乱の中にある。早急にこの事態を解決する必要があった。
「昌景を呼ぶのだ」
「飯富昌景殿にございますか?」
「うむ、真実を尋ねよ」
そう話していると、誰かが障子の前へと立ったのが見えた。杖を持つその影から信親であるとすぐにわかる。
だがいつもと違うこともあった。誰かが側に寄り添っているのだ。
「父上、お話中のようでございますが少しよろしいでしょうか?」
「信親であろう。構わぬのだが、その隣の者は誰なのだ」
「この者は、先ほどお話しにも上がっていた昌景にございます」
「昌景か?」
「はい。では失礼いたします」
信茂が障子を開けると、ろうそくを片手に持った昌景が共に現れる。その表情はやけに深刻であり、今の一連の話が聞こえていたのだと思った。
信茂が横へ座り直し、正面に信親が杖を置いて腰を下ろす。その隣に昌景もろうそくの火を消して座った。
「このような時間に如何したのだ」
「実は数日前より昌景から相談されていたことがございました」
「相談とな?」
「はい。昌景は武田の行く末を憂いて、危険を承知で私の元へとやって来たのです」
信親の言葉が言い終わると同時に昌景は懐より幾枚かの紙の束をワシの前へと差し出した。
「これは?」
「兄、虎昌がたてている計画を他の方々と共有した証拠にございます。その中には勝頼様の暗殺も含まれております」
「それは真の話なのか?」
ワシは慌てて全ての紙を開いて中を見た。確かにそれらには勝頼の暗殺を含め、義信の当主としての地位を確固たるものへするべく、いくつもの計画が記されている。
そしてその中にはこれに賛同する者の名まで書かれていた。
「如何様にこれを手に入れたのだ」
「兄上の従者を1人こちらに引き込みました。その者は兄が信用している男であったようで、色々預かっていたようなのです。その者から受け取りました」
その中にはワシの耳にも入ってきていない話が多く含まれており、それは義信の傀儡を意味するものばかりであった。
たしかに政に関しては義信も弱い面がある。だがそれを支えるよう息子達に、家臣達に託したのだ。
だがそれを虎昌は私的なものとしようとしておる。
「兄であろう。見捨てるか」
「兄であっても主家を裏切ることは認められませぬ。私は飯富の人間であると同時に武田の人間にございます」
「・・・ご隠居様、如何いたしましょうか?」
「虎昌を捕らえよ。ここに名のある者も全てだ」
「よろしいのでございますか?ここに名のある者は全て御屋形様の側近やそれに近い者たちばかり」
「構わぬ」
「御屋形様は如何されるので?」
信茂の不安げな声。だがワシの考えは決まった。
30年以上も前の再来である。ワシはワシの手で当主の座を入れ替える。あの時は父上であったが此度は息子。
まるでワシはあの頃から変わっていないということか、それともそういう運命にあるということなのか。
「義信には家臣の統率を怠った罰を与える。その身を拘束し、家督を四男勝頼へと譲らせる」
「従われましょうか?」
「従わぬのであれば、そうさせるまで」
信茂は相当不安げであった。だが昌景は違った。
さすがは覚悟を決めて身内の罪を明かしただけはある。その覚悟に免じて汚名を被ることが無いようにしなくてはならぬ。
「武田は混乱いたしますぞ」
「そうならぬように庇護を求める。もはや武田が大名としてこれ以上に勢力を広げることは無い。少なくともしばらくはな。むしろ周囲の大国に削り取られていくだけよ」
「・・・ご隠居様からそのお言葉は聞きたくありませんでした」
信茂の言いたいことはわかる。父が順調に行った対外政策は、父上追放後にワシが引き継いだ。
あの包囲さえ無ければ、武田は以降も勢力を各方面へと伸ばしたであろう。
しかしそれは過去の話であり、今は現実を見なくてはならぬ。
それがたとえどのような事であっても。
「父上、庇護を求めると言われますがいったいどこに?」
「もちろん今川よ。氏真は心が鬼になりきれぬ」
「ならばもしその機会があれば私も駿河へと行きとうございます」
「慣れぬ地で目が見えぬのは辛いと思うが」
だが信親は首を横に振った。
「今の私には武田家当主の兄弟であるという肩書きでしか役に立てませぬ。父上、私では足りぬでしょうか?」
「ご隠居様、私からもお願いいたします。兄上に反旗を翻すような真似をしていた私が今日まで無事であったのは信親様のお力によるものです。その恩にどうにか報いたく思います」
年の離れた2人がそうワシに頭を下げた。ワシは一度信茂を見る。
「信茂、ワシに力を貸してくれ。武田を滅ぼすわけにはいかぬのだ」
「・・・まさか御屋形と呼ぶ御方を裏切る日がくるとは思いませんでした。ですが武田のためと言われれば仕方ありますまい」
「よう決心してくれた。もう少し人を集めたいところであるが、あまりに義信らはワシに近いところにおる。故に迅速に計画を実行する必要があるであろう」
「こちらに賛同しそうな者に声をかけましょう」
昌景はそう言って胸を叩いた。
その様が真に力強く、頼りになると思う。
「私の方でも手回しをしておきましょう。現当主を拘束するなど、間違いなく家中に混乱が広がるはず。それを最小限にするために味方を増やします」
「信親も頼むぞ」
「はい」
その後も細かな話し合いをし、その後みながワシの元から帰って行った。
残されたのはワシと、残り僅かとなったろうそく。そして昌景が持ってきた密書。
その中の1枚を手に取った。
『御屋形様には足利将軍家の血縁者を正室として迎えて頂く。そして将軍家の力を用いて現状を打開する』
権力が自身に集まり随分と盲目になったものである。宿老としてワシをよく支えていた時であれば、絶対にならなかったであろう思考であった。
何故今の将軍家にそのような力があると思うのか。将軍家が織田や三好を動かしているのではない。織田も三好も己の欲のために戦を起こし、畿内を、京を奪いあっているのだ。
決してそれは将軍家を支えるためでは無い。どうしてなのだ、虎昌・・・。父上を追放し、ワシと志を同じくしていた虎昌はどこに行ってしまったのだ!
ワシは思わず手にしていた紙を強く握ってしまう。
それが大事な証拠であるということも忘れて。
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