240話 家中混乱の責
躑躅ヶ崎館 武田信玄
1569年夏
「昌景、今は大事な話し合いの場である。用件は後とせよ」
「そうはいきませぬ。ご隠居様がいらっしゃっておりますので」
「何!?」
「父上が?」
外で待っておると、部屋の中より虎昌と義信の驚きの声が聞こえてきた。だが明らかにその言葉に含まれる意味は違っているように聞こえる。
続けて昌景の声が聞こえた。
「少々皆様方にお伝えすべき事があると」
「それを先に言わぬか!御屋形様」
「この話は後で良い。父上をはやくお通しするのだ」
「かしこまりました」
そういうと昌景はワシの元へとやって来た。その顔にはやはりあの日と同じく、覚悟を決めた表情がある。
昌景が頷いた。廊下の向こう側に控えている信茂も頷く。
これより武田の窮地を救う。例え隠居の身であろうとも、例え我が息子を犠牲にしようとも、ワシは守るべきものを守らねばならぬのだ。
「大事な話をしていたであろうに、急にすまぬな」
「いえ、お気遣い無く。父上であればいつでも歓迎いたします」
「嬉しいことをいってくれるな。さて早速本題に移るが・・・」
ワシが目配せをしたことを確認したであろう信茂が、この部屋を取り囲むように配置した兵らに合図を送る。
それと当時に三方向の襖が開けられ、武装した兵らが乗り込んできた。
「なっ!?これはどういうことなのですか!」
「離すのだ!この私を誰と心得ているのかっ」
「虎昌!?」
一瞬の出来事にこの計画を知らぬ者らは混乱した。だが当初より話を通していた者らは冷静のその様をみている。
一門衆のほとんどはワシに味方しており、重臣の多くもこちらに従っておるのだ。もはや虎昌に味方する者など、最初から義信を傀儡としようとしていた者たちのみである。
「ご隠居様!これはいったいどういう事なのですか!何故この者らは私に縄をかけるのです?」
「それはお前が武田を私的に扱おうとしたからである。義信の側近であることを利用してな」
「何を言われるのです!私は長年ご隠居様にお仕えし、今でも武田のためにこの身を尽くそうとする気持ちはまったく変わっておりませぬっ」
「誓えるか?」
「この命を賭けてでもお誓いいたします」
虎昌は全く動じた様子無く、そう言い切りおった。だがそれはワシの狙いでもあった。
「ならばこれはなんだ?」
ワシは懐より今回の騒動の証拠の束を義信に投げ渡す。それを受け取った義信は簡単にであるが内容を確認したようである。驚愕の表情をしたかと思えば、すでに兵らによって拘束されている虎昌に目を向けた。
虎昌もまたその束を見て顔を青くさせておる。
「これは・・・、本当の話なのか?誰かに騙されているということは?」
「虎昌の従者が昌景に漏らしておる。昌豊、ここに」
「はっ」
あの後にワシに味方した1人である
呼ばれた昌豊は外に控えており、その傍らには1人の男の首が置いてあった。
その首の正体。それは、
「何故っ、何故こんな姿に・・・」
その首の正体は虎昌の信頼していたという従者のものである。昌景に密告した者でもあったのだが、それは裏で色々悪事に手を染めていたことが明るみに出ることを恐れての保身が目的であったのだ。
故にワシが直々に手を下した。もちろん証拠となる物を全て出させた後でである。
「この者が昌景へと漏らした。そして武田のいく末を案じた昌景が信親に相談したのだ」
「昌景っ!何故だ、私はお前の兄であるぞ!」
「兄であっても見逃せぬことはございます。我らがご隠居様より申しつけられたのは武田の対立を煽ることでも、武田の家を乗っ取ることでも無く、武田を繁栄させることにございました。ですが兄上の行いではそうなるようには思えなかった」
「そういうことである。そして他にも虎昌に協力していた者がおるであろう」
その言葉と同時に今の今まで大人しくしていた者ら数人が、側に置いていた刀を拾いあげ抜刀する。
その先はワシに向けられていた。
「止めよ、お前達!父上にっ」
義信の言葉など最早届かぬ。この者らは最初から義信を主として見ていないのだ。
「ここまできて邪魔はさせぬ!それが例えご隠居様であったとしても!」
真っ先にワシに切り込んできたのは、信茂の報告に上がっていた長坂昌国であった。だがワシの身体に刀が届く前に、義信に接近しており重宝されておった虎綱によって横腹を斬られる。
苦悶の表情でワシの目の前に倒れ込む昌国。ワシは刀を抜いてそのまま身体を貫いた。最初こそもがいておったが、すぐに事切れたようでまったく動かなくなる。
長年ワシを支えてきた長坂の人間をワシは躊躇無く殺した。その事実が虎昌に与する者らに恐怖を与えたようで、手にしていた刀を放棄し降伏の意を示したのだ。
兵らに命じてその者ら全員に縄をかけ、息を潜めていた者、この場にいなかった者らも全員捕らえるよう命じた。これで武田に仇成す者らは全て捕縛することとなる。
いや、まだであったか・・・。
「義信」
「父上・・・」
「ワシが今何を言おうとしているかわかっておるか?」
「・・・分かっている。だが、何故なんだ!最初から俺は政が不向きであると知っていたはず!勝頼の方が良いと思われていたのであろう!ならば何故私に武田の家を継がせたのだ!」
「兄弟でしこりを残すと、いずれワシのようなことを考える者が出てくると思ったのだ。故に頼りないところもあるとは思いつつお前に託した。そしてみなには足らぬ部分を補うよう命じたのだ。だがワシの願いはまるで誰にも伝わっていなかったようであるな」
ワシは昌国の亡骸をかわして義信の目の前に立った。
「今ここで決めよ。当主の座を自ら降りるか、それとも家中を混乱させた責を取ってワシに斬られるか」
「・・・どちらにしても俺に生き残る選択は無いのであろう?ならば俺を斬ってくれ」
「良いのだな?」
「本当は戦場で死にたかった。畳の上で死ぬのなど不名誉なことであると思っていた。だが当主という立場になってそれも出来ぬ事を悟ったのだ。狭い部屋で自ら腹を切るくらいなら、甲斐の虎と呼ばれる父上に斬られることを望む。俺にこれ以上望むことはない」
義信は自らの首を差し出すように、首筋を露わにする。ワシが狙いを外さぬように。
「御屋形様・・・」
「虎昌。何故このようなことをしたのか俺には未だにわからぬ。だが俺では主としては頼りなかったと思ったのであろう?ならばその方らが犯したことの責は、主である俺も取らねばならぬ」
「良い覚悟である。ならば父自らその生を終わらせる。しばらくしたらワシも行くであろうから黄泉の世界で待っておれ」
「かしこまりました。父上がいらっしゃるのを先に待っております」
ワシは持っていた刀を振り上げ、そして振り下ろした。
「御屋形様ー!」
虎昌や他の側近らの声が響く。だがそれも裏切っていたのであるから、何も心に響くことは無かった。
「虎昌、他加担した者らには切腹を申しつける」
「・・・かしこまりました」
「連れて行け、信茂」
「はっ」
ワシは刀に残る血を振り払い、鞘へと収める。
部屋には2人の亡骸が転がっており、それからしばらくした頃に騒動を聞きつけた勝頼がやって来た。
「これはどういうことなのですか!?」
「勝頼」
「はい」
「これよりは諏訪から武田へと姓を戻し、家督を継ぐのだ」
「・・・何を言われているので?兄上は如何されるのです」
最早答えなど分かりきっているであろう。だがそれでもまだ信じられぬか。
まさか父が子を斬ったなどとは。
「義信は死んだ」
「・・・何があったというのです」
「家中を乱した者がいた。その責任を義信がとったのだ」
大きく息を吸ったように見えた勝頼はその場に崩れる。信友らがそばへと駆け寄ったが、ワシは勝頼に構うこと無くその場を離れた。
今後間違いなく勝頼との関係は悪くなるであろう。だがこれでよい。
あの者であれば武田を正しき道へと導けるはず。本来であれば義信を支えて貰いたかったのだがな。
いかぬ、今になって子を斬った実感がわいて来おった。手が震えておるわ。
「信親をワシの屋敷へ」
「かしこまりました」
昌景がワシの側を離れ、信親のいるであろう屋敷へと向かった。ワシはまっすぐ誰と話すわけでもなく、屋敷へと戻ってくる。
「今後如何いたしましょうか?」
「ワシは最早隠居の身。だがワシがここにおれば勝頼もやりにくかろう」
「甲斐を離れられるおつもりにございますか!?」
「そのために信親を呼んだのだ。あの者は目が見えぬ代わりに、誰にも見えておらぬものが見えておる。ワシがおらずとも上手く導いてくれるであろう」
「しかし」
「信茂」
ワシの言葉を聞いてなお、引き留めようと言葉をかけてくる。だがワシの決心は固い。最早変わることも無かろう。
「申し訳ございませぬ。では私も共に」
「ならぬ。おぬしも信親と同じく、勝頼を導く者の1人よ。甲斐に残り、勝頼を助けてやってくれ」
「私の願いは叶いませぬか?」
「すまぬ」
信茂は静かに涙を流し、しばらく泣き止むことも無かった。その後昌景に呼ばれた信親がやって来たことでどうにか泣き止んでおったが、未だに目は腫れたままである。信親は特に何かを言うわけでは無く、ワシの最後の言葉を聞いていた。
そして確かに承ったと言ってくれたのだ。
これでいよいよ思い残すことは無くなった。勝頼が無事に家督を継承したことを見届け、そして此度の騒動の関係者らが全員切腹したことを見届けたら甲斐を去るとしよう。
さて、いったいどこに向かうか。
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