145話 四面楚歌、生じる隙間
躑躅ヶ崎館 武田信玄
1565年冬
随分とやつれた様子の勝頼と茶を飲み、静かな時を過ごす。今年は四方全てに気を遣い、領土拡大をなすことは出来ておらぬ。
そしておそらく来年には各地で動きがあるであろう。こうやって息子と茶を飲むこともとうぶん出来ぬな。
「父上、何故こたびは私を呼ばれたのでございますか?」
「信君より聞いたのだ。おぬしは美濃での敗戦以降、随分と気にした様子であるとな」
「・・・父上に、いえ家中の者と顔を合わせるのが恐ろしかったのです。あれほどまでに負けてしまっては・・・」
あの美濃侵攻。大将はやはり義信にすべきであったと後悔したのは、勝頼らが遠山の兵に追撃されて命からがら和田城に入城したという報せを受けたときであった。
数度にわたる長尾との戦で功を上げておる義信であれば、ここまでの負け方はしなかったであろう。
しかし敵をまとまりのない城主らだと侮り、初陣を果たしていない勝頼にとってちょうど良い戦だと思ったのはワシの判断であった。
「勝敗は兵家の常という言葉がある。たしかに散らした命は返ってこぬが、戦に負けたからといってそこまで気に病むものでも無い。そこまで責任を感じるのであれば、さらに強くなれ。諏訪の跡継ぎとして、ワシの子として立派な将となるのだ。それがあの日おぬしを信じた者らへの弔いとなる」
「・・・私は立派な将になれましょうか」
「ぬし次第よ。とにかく励むのだ」
残る茶をズズッと飲み干し、一度息を吐いた。
今年も随分と厳しい冬になろうな。
そう思っていたところで、騒がしい足音が聞こえてきた。ようやく来たか。
「父上、お待たせいたしました」
「気にするでないわ、義信。して、何故鎧姿なのだ」
嗣子である義信はこれから戦にでも向かうのかというほどしっかりと鎧を着込んでワシの前に姿を現した。
賊でも討伐に向かうつもりか?
「何故、ではございませぬ!どうして今年遠江侵攻の御下知をくだされなかったのですか。三河が一揆で混乱している隙に、遠江を攻め獲ってしまえばよろしかったではありませんか!」
「いつでも出陣出来る用意をしていたということか。そしてその不満を述べるために鎧を着てきたと?」
「はい!」
その眼には強い意思が覗いて見えた。しかしこやつの室は今川の出なのであるが一切の躊躇が無い。松殿はいったいこやつのことをどう思っているのやら。
「義信、おぬしも座れ」
ワシが勝頼の隣を指さし、大人しく座らせる。もちろんその鎧も脱がせたうえでである。
「何故今年ワシが兵を動かさなかったか本当に分からぬのか」
「・・・分かりませぬ。しかし好機であったことは事実でございました」
「本当にそう思うのか?勝頼、おぬしは如何だ」
「・・・一揆が起きたのは三河国でございます。井伊谷城のこともありますので遠江を預かる者らはこちらを間違いなく警戒していたかと」
「ワシも同意見よ。事実、引馬城など、三河との国境沿いの者らは援軍を三河に入れておらぬ」
岡部が兵を動かすそぶりを見せたときは慌てたものだ。まだこちらの交渉がまとまっておらぬでな。しかしそれも囮であった。
同時期越後でも春日山城より長尾が兵を出したと報せを受けた。
これは間違いなく警告であろう。
「しかし父上や元康が今川家中をかき乱したことで、警戒しているといっても我らが負けるとは思えませぬ」
「戦は何が起こるか分からぬものよ。油断しておると痛い目に遭うぞ」
かすかに勝頼の肩が震えたのがわかった。自身のことを言われたと思ったか?いいや、これはワシも含めた3人に言っておるのだ。
油断大敵であるとな。
「かりに三河や遠江を制したとして、一揆で荒れるあの国々を我らが治めねばならぬ。しかし越後の長尾や尾張の織田はこちらの領内が落ち着くのは待ってくれぬぞ。隙を見せれば攻めてくる。そんな奴らよ」
「しかしそれでは武田はこれ以上大きくなれませぬ」
義信は不満げに言い放った。確かに何も手を打たなければ、甲斐と信濃を守るだけで終わってしまう。
だがそうならぬ為にこの1年を使ったのだ。
「2人とも近う」
「はっ」
「・・・?」
2人がワシに体を近づけてから、外の誰にも聞こえぬほどの声で、
「今信君を北条の元へやっておる。交渉が上手くいけば、今川と長尾を弱らせることができ、我らの領外進出もまた可能となろう」
今は倅の氏政に家督を譲っているが、実質家中を制しているのは氏康のままである。あの男とならば、この窮地でも打開は可能であろう。
「北条は今川とともに歩むのではないのですか?」
「今川が我らと敵対するのであれば北条よりも長尾と手を結びたいと思うと思わぬか?」
長尾めが関東管領を名乗りだして以降、北条はみるみる内に勢力を押さえ込まれていった。関東の地でも長尾に鞍替えする者も出ている始末。
上野と武蔵の大部分と失った北条より、わが武田領に多く接している上に信濃侵攻の理由を持つ長尾の方が手を結ぶにしても意味がある。
だが今川と長尾が手を結べば、北条による関東一帯の平定はより時間のかかるものとなるであろう。
「もし今川が三国同盟の代わりに長尾と手を結べば、間違いなく北条との縁も切れるであろうな」
「北条はこちらにつきますか」
「その辺のことも理解しているのであれば間違いなくな」
「では戦は来年に持ち越しでございますね」
「そういうことだ。故にあまり気を張りすぎるで無い」
「かしこまりました」
義信は鎧を持って部屋より出て行った。残ったワシと勝頼は汲まれた茶をまた静かに飲む。
「そういえば信親について何か聞いておるか?」
「
「そうか、盲目であるから仕方が無きこととはいえ、随分と会っていないものだ」
「躑躅ヶ崎館はいささか遠ございますので」
次子信親には、小県の国衆である
生まれつき盲目であり、海野家を継いで以降は城からあまり出てこなくなった。
心配ではあるが勝頼をはじめ、一族の者らが気にかけてくれておる。たまにこうして報告を受けるのが常となっているのだ。
長延寺実了の弟子となり出家し、竜芳と今は名乗っているのだがワシは信親と呼んでいる。
「たしかにそうであるな。それにあやつを武家に縛っているのはワシよ。その不自由な体を引きずって顔を見せに来いなどとは言えぬ」
「はい」
底に残る茶を飲みきり、ワシは湯飲みを置いた。
「次の戦でワシは領外へ出陣する。勝頼、おぬしもワシとともに来い。勝ち戦というものをその目にしかと焼き付けるのだ」
「その日を楽しみにしております」
勝頼は頭を下げた後、部屋より出て行った。
1人になったワシは机と向き合い、紙を取り出し墨を用意する。送り先は海野の娘。
内容は我が息子に当てたあたり障りの無いただの手紙である。
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