91話 かつて好いた御方の遺言

 大井川城 次郎法師


 1564年正月明け


 これまで散々お世話になってきた暮石屋庄兵衛様に連れられて通されたのは大きな広間でした。

 しかしこの場にいらっしゃるのはたったの5人だけ。先日庄兵衛様の屋敷でチラッとだけ見た氷上様も座っておられる。

 そして上座に座っていらっしゃる御方が一色の若き当主様、一色政孝様でしょう。

 今は亡き直親様が頼れと仰った人物。果たしてどのような御方なのか。私の不安を感じ取ってでありましょうか、虎松が私の手を強く握るのです。

 しかし今更あとに退くことは出来ません。庄兵衛様のあとに続いて部屋へと入り、指示された場所に腰を下ろしました。


「政孝様、こちらが井伊直盛様の娘である次郎法師様でございます。そしてこの幼子が井伊直親様のお子である虎松様でございます」

「次郎法師と申します。此度は父直盛が大変なことをしでかしてしまい、まことに」


 そう言いながら頭を上げる、政孝様は首を振っておられました。何が違うというのでしょう。

 私には意味が分からず、助命のお願いをすることすら忘れてジッと政孝様を見てしまいました。


「次郎法師殿、助命は不要だ。俺はお二人を必ずお助けいたします」

「・・・何故裏切りの一族である井伊の残党を助けてくださるのですか?今ここで私と虎松様に手をかければ一色様のお立場もよくなるのではありませんか」

「幼子を隣にしてそのようなことを口走られぬ方がよい。それにここで2人を討ったとして、氏真様はともかく他の方々には信じられぬでしょう。俺は元康と近く、そして井伊直盛とも接点を持ってしまった。その報告をしたところで形勢が不利になって2人を差し出すことで助命したと言われるのが関の山です」


 政孝様は心底嫌そうに息を吐きながらそんなことを言われました。聞いた限り氏真様に対する忠義は本物のように思えますが、家臣の方々にはあまり良い思いをされていないのでしょう。


「虎松殿にはしばらく井伊の名を捨てていただく必要がある。いずれはお許しを願うつもりではいるが、それまではどうにか我慢して欲しい」

「この子の命が助かるのであれば」


 私は隣に座る虎松様を見て、そう強く思った。むしろ井伊の名は名乗らなくても良い。周りから嫌な目で見られることなど分かっている。そうであるならば別の姓を持って生きていくのだって悪くはないでしょう。

 生きていれば必ず良いことはある。死んでしまえば終わりです。


「わかった。では虎松殿の身は・・・、時宗に預ける」

「儂でございますか!?」

「あぁ、時真より聞いている。随分と退屈そうにしているようでないか。それに小十郎も俺の側にいて、時真の娘も嫁入り前だろう。時宗の持つモノを虎松殿にも教えてやってくれぬか?もちろん時宗1人に任せるつもりはない。色々な者にふれあわせ立派な男に育て上げよ」

「・・・懸命に努めまする」


 どうやら虎松様の養育には時宗様がついてくださるらしい。長年一色家を支えてきた御方です。何も心配はいらぬでしょう。


「虎松様、氷上時宗様にご挨拶なさい」

「井伊虎松でございます。氷上様、よろしくお願いいたします」

「おぉおぉ、しっかりしておるのぉ。これからは儂を爺と思ってくれて構わぬ。しばらくは慣れぬ地で不便であろうが遠慮無く言うのだぞ」

「はいっ!」

「早速孫馬鹿になっているぞ。あまり甘やかさんようにな」


 政孝様は氷上様にそう言われて他の方々が笑い声を上げ、虎松様も周りを見て笑っておられる。

 このような温かい家に迎えられて本当に良かった。私がかつて好いた直親様のお願いにどうにか応えることが出来て、胸のつっかえが取れたように軽くなりました。

 これで私は遠慮無く寺へと戻ることが出来ましょう。


「次郎法師殿、そなたはこれから如何するおつもりか」

「私は寺に戻ろうかと」

「戻れば井伊の者に追われることになる」

「しかし私の居場所はそこにしかありませぬので」


 私の返事を聞いた政孝様は大層困った顔をされている。他の4人の方々も同じような表情をされた。

 しかし私としては虎松様が助かる可能性があるだけで十分幸せなのです。一色の方々が危険を侵し続ける必要など無いのですから、私のことは放っておいていただいても、そう思っていた矢先に、


「還俗して母上に仕えていただけませぬか」

「私は謀反人井伊直盛の娘です。虎松様はともかく私まで匿うなど、あまりに危険が過ぎましょう」

「時宗、1人であろうと2人であろうと変わらんだろう」

「・・・そうですな。1人でも駄目だと言われれば駄目ですからな」

「そういうことだ。遠慮せずにこの城に残って欲しい。そして虎松殿の成長を見守ってやって欲しい。子を託された次郎法師殿には、まだその役目が残っているのではないか?」


 私はようやくこの場にいる意味を悟った。私がかつて好いた人は、私のことも守ってくださったのだ。

 数年前、たった一目見ただけの政孝様の本性を直親様は見抜かれた。そして私と虎松様をこの地へと送り出したのだと。


「私達、2人一色政孝様のお世話になります」

「あぁそうしてくれ。母上も喜ぶだろう」


 私が頭を深く下げ、涙が見えないようにしている前方より温かな声で迎えられた。なんて居心地のよい場所なのでしょうか。私の人生もまだまだ捨てた者では無かったようですね。

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