file16 捜査8:バルベルデ発二五三便墜落事件

 部屋に置かれているものが、腐り落ちている。

 コーヒーを飲んだ時、景色が歪んで見えたのは、本当に歪んでいたからだ。階下からマグマのように感じ取られる力。それによって今自分が見ているものが生み出されている。隊員達は怯え、周囲を見回し、動揺する。ローレンスも。そして自分も。

 フェイは姿勢を崩しながらも、ゴム男を見た。彼は喉を鳴らしながら……笑っている。銃口を突きつけられているのに。


「これは幻じゃない、一体下で何が起きてる……どうやって、こんな力を――」

「憎しみの力だ……兄貴の感情が、力になってる……ここをぶち壊すほどに」

「ここも巻き込まれる……無事じゃ済まない!」

「知るかよ。最初っからそのつもりなんだぜ、兄貴は」

「どういう」

「分かんねぇか。兄貴はな……ここを丸ごと買い取ったんだ。いつか来るはずのお前ら……をまとめて葬るために!」


 唖然とした。

 そうしてフェイは、自らの失態に気付く。この振動で、発見が遅れた。

 今の会話の最中ずっと……ゴム男は動かなかった。動かないその身体に無数に空いた血の穴が、塞がっていた。


「――ッ」

「もうおせぇ、お前らはさっくり死ぬんだ、今、ここでッ!」

「撃、」


 閃光。

 間隙を抜けて、ゴム男は――ひとつの弾丸となって、彼女達を急襲する――。


『ねぇ、本当にそっちだと思うの!?』

「おれの勘だ! あいつの言った通りだ……何か感じる、『魂』みたいなものを……」


 震動が少し収まった。そのスキにフェスタは階段を駆け下りる。『震源地』を追っていく。奴は下層の廊下を歩いている。熱探知機のように分かった。


「とっとと会おうぜ……お前のせいでおれは、奴を取り逃がした……」


 そこで……フェスタの言葉が立ち消える。


『フェスタ君!? どうしたの――』

「なんだよ、これ」


 彼は、目の前の、というよりは、眼下の光景が信じられなかった。

 立ち止まる。

 階段の一部が、数階分をぶち抜いてまるごと陥没し、吹き抜けのようになっていた。

 それだけではなかった。息を呑み、自分の喉が鳴る音までもクリアに聞こえた。

 あらゆる場所に、転がっていた。

 死体が。武装した警官たちの死体が。突如として現れたがらんどうの空間の周囲に散らばり、どろどろした血溜まりを作っている。彼らはただ死んでいるだけではなかった。

 ある者は空隙から落下して死んでいた。ある者は瓦礫に押し潰されていた。またある者は、段差で首を奇妙に捻じ曲げていた。ある者は、折れ曲がった手すりに喉を突き刺されて死んでいた。そして、ある者は――ささくれた壁に、顔面ごと食い破られて死んでいた。


「階段が、意思を持って……食った…………」


 向こう側のドクターの声は聞こえない。ただ見ている。手すりが、段が、それぞれ奇妙にネジ曲がり、内部の骨組みを露出し、狂い咲く枝葉のようにぐしゃぐしゃになり……そして、錆びついている。彼が手近にあった手すりの一部に触れると、それは途端に崩れて落ちた。

 あの時と同じだ。あの時も、床が口を開けて、自分を飲み込んだ。その後、床は腐って落ちた。役目を終えたように。

 あまりにも異常で、酸鼻極まる光景だった。先程の震動が起きていた僅かなあいだに、この場所に嵐が通り過ぎたのだ。そして皆……死んだ。

 奇妙な静けさの中、フェスタは息をすることすら忘れ、苦心して陥没した階段の隙間を飛び越えた。それから階下の踊り場へ着地。後ろを振り返ると、また手すりの一部が崩れ落ち、乾いた音を立てた。窓からは、藍色の光――もう夜だ。随分と寒い。

 瓦礫の転がる床を、散らばる死体を踏みつけないようにして歩く……。

 がしり。何かに、足を掴まれた。


「うおあッ――」


 思わず縮み上がり、十代の少年にふさわしい悲鳴を上げる。

 ……足元を見る。血まみれの隊員が一人、横たわりながら顔を上げ、片足を掴んでいた。彼の顔はべっとりと赤く染まり、目は恐怖に見開かれていた。だがその口はぜいぜいと息を吐きながら、何かをしきりに訴えていた。

 フェスタは躊躇することなく、何かの使命感に駆られて、しゃがみ込む――。


「……まだ」

「なんて、言った……?」


 すると死にかけの男は、喉の奥から絶叫した。


「やつは、あくまだ! みんな、みんな殺した――やつは、にんげんじゃ、ない!」



 まさにその時――全く別の、もうひとつの『真実』に直面していた者が、一人。

 本庁の資料室、その一角。


「マジかよ……」


 キムだ。資料を数枚、胸の前に掲げて……荒く息を吐いた。

 そして力なくずるずると棚にもたれかかり、座り込んだ。


「こんなの、タチが悪すぎんでしょうよ……」


 くしゃり。震える二つの拳の狭間で、紙が音を立てる。

 その片隅にはっきりと、ひとつの文字列がきざまれていた。

 ――『便』と。



「ああ、ああ、みんな死んだんだ……」

「落ち着け、もう話さなくていい――」


 だが、そこで彼は、フェスタの身体にがっしりとすがりついて絶叫した。


「間に合わなかった、俺たちは何一つ間に合わなくて気付かなかったんだ、それを、それを……ああ、あんたには、むごすぎる――あの悪魔は、あんたを苦しめるためだけに――」


 その、言葉を言い終わる前に。

 彼は、ごぼりと血の塊を吐いて、後ろに倒れ込んだ。もう起き上がらなかった。


「本質……おれの」


 ゆっくりと、恐怖に見開かれた目を閉じてやる。

 周囲を見る。死んでいる。みんな、死んでいる。


「イメージする。本質を……おれの、力の……」


 鼓動が早くなる。死が散らばっている。彼がもう少しここに着くのが早ければ救えていたかもしれない命。そう、救えていたかもしれない命。無数に。死んでいい命などない。

 ……目を瞑り、胸をぎゅっと鷲掴みにする。


「イメージする……イメージする、イメージする、イメージするッ…………」


 流れ込んでくる。沢山の死。無惨に殺された人々の表情がザッピングされる。過去と現在が混ざり合い、彼の中に激情が吹き荒れ始める。どくん、どくん。明確な、衝動。


「……イメージッ! とっととしやがれッ、このウスノロがぁッ!」


 彼は自分に、十代のクソガキの身体に叫んだ。それが効果を発揮した。目を開くと視界が急に広がった。ちからが階段を降り、廊下の隅々に行き渡り、その先を歩く者をキャッチする。


「そこだなっ、クソ野郎がッ……!」


 フェスタは弾かれたように階段を駆け下り、その先の通路へと向かった。その手に、死体の携えていた拳銃を持って。


 たくさんの死を生み出した後も、彼の鼻歌は止まらなかった。


「動くなッ!」


 その言葉を聞くまでは。

 ……彼は後ろから聞こえる声に従い、背を向けたまま両手を上げる。場所はマンションの中層。両脇には、記名のない部屋が並んでいる。

 そのまま後ろからゆっくり近づいてくる。荒い息と、震える唸り声と共に。

 彼――スミシーは、口から笑みを漏らし、そこで、一歩進んだ。二歩、三歩。


「ッ!」


 フェスタは歯ぎしりして、相手の背中に向けて、拳銃を撃った。続けざまに三発。

 マズルフラッシュ。痛みを感じる。十代の身体には手に余る力。弾丸が前方へ。

 ……相手は振り返った。こちらを向いた。薄いどろりとした笑み。一瞬の戦慄。反応する間もなく、相手が腕をかざす。

 彼の眼下から、床材がバリバリと裂けて剥がれ、衝立のように『ささくれた』。

 それは目の前の弾丸を飲み込み、無効化する。一発、二発。

 ――三発。


「何っ……」


 それは軌道を変えた。湾曲し、衝立を超えて……彼の脇腹を抉った。

 動きが怯む。衝立が崩れていく――フェスタは、駆け出していた。


「くそっ」


 たたらを踏みながら、前方に向けてもう一度手をかざしてくる。もう遅い。床は更にささくれた。まるで針山のように、こちらの行く手を阻んでくる。ざく、ざくざく。衝撃で壁にヒビが入り、照明が不安定に明滅する。その中でフェスタの感覚は鋭敏だった。どこから来るのかが分かった。よって彼は、とっさのささくれを、ダッシュとサイドステップで回避し。

 ……足に一気に力を込めて、がら空きになった彼の眼前で飛び上がった。ふわりと小さな身体が舞った。拳銃はその手の内側にある。相手はさらに手をかざそうとしてくるが。襲い。

 フェスタが、相手の身体にがっしりと組み付いた。上半身をまるごと、蜘蛛のように拘束する。この身体だからこそ出来る芸当だった。そして、その額に、拳銃を突きつける。

 破壊され、ずたずたになった廊下が後ろ。だが、ささやかなものだ。あの階段に比べれば。

 尻もち。息をわざと大きく吐いて呼吸を整える。落ち着け、向けるべきは衝動じゃない。


「カラテだ。ガキの身体で、初めて役に立った。もう一回両手を上げろ」

「……くはは」


「うっ……」


 激流は過ぎ去った。身を打つ鈍い痛みの中で顔を上げる。

 そこには破壊され蹂躙され、更地のように平らにならされたリビングルーム。テーブルも椅子も何もかも破砕されている。誰に。こいつにだ。


「他愛ねぇなぁ、おい」


 目の前から、人の姿に戻ったゴム男が足を引きずってやってくる。周囲に転がっているのは隊員たち。弾丸のように部屋中を駆け回る彼に身を打ち据えられ叩きのめされた成れの果て。全員死んでいるわけではない。だが誰も彼もがぐったりと身を横たえている。戦力としては――全滅だ。


「後は兄貴だ。兄貴が、お前の大事な刑事を殺して……おしまいだ。ははは」

「くッ……」


 目の前で哄笑するゴム男の奥に、別の二人が見えた気がする。フェイは、『彼』の勝利を願う。そして、その願いが、祈りにほど近い、儚いものであることに気付く――。


「驚いたな。本当に子供なのか。あの時、弟に殺された刑事」


 組み付かれたまま、スミシーは言った。

 動揺せざるを得ない。彼は今、自分がかつてアダムという男であることを知っている。いや、こいつの弟の言うように『魂』を感じられるというのなら……容易なのかもしれない。


「その口ぶり……まるで、あの時あそこに居たみたいだな」

「その通り。少し先に俺は居た。弟が、囮を引き受けた」

「……ふざけんな」


 フェスタは目を細めて、意識を拡散させた。

 廊下の左右にある扉が、一斉にバタバタと開き始める。

 そして、内部の空間から様々なオブジェクトが飛び出し、ミサイルのように移動しながら吸い寄せられ、スミシーの周囲に到着。彼を完全に包囲する。

 瓦礫やガラクタだけじゃない。皿やナイフ。今ここで全てを命中させれば、容易に彼を殺すことが可能であるような、物量。今まさにフェスタが意思を込め、分身として操っている。

 息が荒い。動揺している、自分。


『落ち着いてフェスタ君――』

「あのときと同じだ。おれはお前らみたいなのを捕まえるために刑事になったんだ――」

「はははっ」


 スミシーは笑うのが下手だった。喉に引っかかり、咳のように聞こえる。それが神経を逆撫でする。


「何が……おかしい」

「追い詰めているのは君だぞ。だのにどうして震えている?」


 言い当てられる。銃が、ナイフが、ガラクタが……ガタガタ揺れる。


「ああ、分かるぞ。君は今、迷っているんだ。自身の力を信じきれていない……」


 スミシーが腕に触れ、掴んだ。


「お前、本当に引き金を引くぞ――」

「ならとっととそうすればいい。それが出来ないのは、君の中で、何度も何度も繰り返されているからじゃないのか。弟に殺された日を」

「何――」

『フェスタ君! 聞かないでいい! 撃ちなさい――』

「分かるぞ。君にとってその日がきっと、不可能の象徴だったんだ。挫折した刑事。泣けるな。君は今こうしているうちにも――」

「ふざけやがって、何も知らねえ癖に。出任せだ!」


 ドクターは勘違いしている。すでに、引き金は引いている。銃身が、サビつき始めている。


「ああ、表面的な思念を感じて、当て推量で言ってみたが……案外いけるものだな。そして、力は、失われつつある」


 そのとおりだった。皿やナイフが床に次々落ちていく。その次に……ドクターと通信していた耳元のインカムが、反応しなくなった。奴の腕から……力が作用しているのだ。


「フェスタ君!? くそッ、通信途絶……フェイたんは……」


 映像に砂嵐。フェスタの様子が見えなくなる。ドクターはヘッドホンを投げる。

 後ろから、キムが駆け寄ってきた。


「ドクター、その」


 耳元で、その『真実』を――彼女に、もたらした。


「……ああ」


 数十秒後……ドクター・ウォシャウスキーは、膝をがっくりついて、その場に崩れ落ちた。

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