火を宿さぬ間奏曲(インターリュード)

 オーセルクヴァックの中でも特に奥まった裏路地にあるボロアパート。紅き幻影ファントム・ルージュが女性と共に戻ってきた根城は、あまりに簡素な一室だった。部屋の主が気にしないせいか、殆ど掃除がされておらずほぼ全ての家具が埃をかぶっている。そもそも休憩を取るためだけの空間のため、複数人を入れることを想定していない。ろくなベッドもないらしく、先ほどの女性はとりあえずソファに横たえられることになった。

 いつの間にか、紅き幻影ファントム・ルージュと呼ばれた男からはあの象徴的な紅色が消えている。腰まで伸ばした髪はまっすぐな黒髪で、しっとりとした柔らかさよりは何層も透明な黒を重ねた硬質さの印象を受ける。

 また、髪や仮面、まとう光が消えたことで、男の別の異質さが浮き彫りになる。周りの赤を反射してまともな色のように見えていた肌は、不健康を通り越した青交じりの薄い黄土色だった。

 男は武器とコートと共に仮面を外し、手慣れた手つきで隠していた目元に包帯を巻く。そしてそのまま、無言で女性を見下ろしたまま動かなくなった。




 しばらくして、身じろぎしながら女性がようやく目を覚ます。まだ寝ぼけているのか、目は殆ど開いていない。ここから緩やかに目覚めていく……はずだったのだが、僅かに動いただけでも舞う埃を吸い込んでしまい、肺と喉と目に尋常でないダメージを食らいながらの起床となってしまった。


「ゲッホゴホ……ちょっと、やだ……なんでこんなに埃っぽ…………え?」


 女性のピントが徐々にあっていく。埃で痛い目をこすった先に見えた景色には、長い髪をこちらに垂らして無表情で此方を向いている、死んだ目の仏頂面があった。


「……は、はぁあああ?!ちょっとここどこ!?いや、その、え!?」


 素っ頓狂な声を上げながら、女性がソファから跳ね起きて周りを見渡す。はがれかけた壁紙、電気の通っていない照明、埃まみれのトレンドガン無視の家具……女性が直感的に「ここは廃虚だ」と認識する。そんな廃虚に一緒にいる棒立ちの長髪の男は、女性が立ち上がったのを確認して上から眺めるのはやめた。が、依然として無言で女性を見つめるのだけは変わらない。

 状況的にはピンチと認識するべきはずなのだが、恐怖よりもいら立ちが勝ったせいで女性が男に勢い良く突っかかっていく。


「……ていうかさっきから何!無言で何もしないとか、監視かなんか!?私あんたになんか迷惑かけた覚えないんだけど!」

「連れてきただけだ。あと迷惑はかけた」

「迷わっ……ちょっと、あんた私の何を知って……!」

「女、巻き込まれた経緯には興味がないが、何故首を突っ込……」


 思わず手が出たのは、女性の方だった。完全に素人の突発的な行動だったが、男は体に当たらなければどうでもよかったらしく、特に避けようともしない。グレーのシャツを掴んで顔を真っ赤にする女性を、男がそのまま冷ややかな目で眺めていた。


「無礼に無礼重ねんのやめてくれない?雑に女って呼ばれるぐらいなら名前ぐらい名乗るわよ。……リーン。ネットで記事書いてる、フリーライターってやつ」

「……使う機会はないだろうが、覚えておく」


 女性……リーンの名乗りを聞いてから、男がシャツを掴む手をあっさりと振り払う。軽く手を動かされただけなのに体を持っていかれそうになり、リーンが急に置かれている立場を認識してたじろいだ。それまでのやり取りなどなかったように、男はそのままリーンの代わりにソファに腰を下ろし、前かがみになる。


「……寝るから起こすな。それとここから出るな」

「はぁ!?なんで私だけ名乗ってあんたからは教えてもらえないわけ!?会話成立してないにもほどがあるでしょ!」

「お前に情報出しをしても現状は無意味だ。……とにかく、ここから出るな」


 リーンの怒号を浴びているにもかかわらず、男はそのまま眠りにつく。息をしているのかわからないほどに、呼吸音も聞こえなければ胸もわずかにしか動かない。あまりに早い就寝を信じられずに、リーンが軽く男を小突く。それでも寝続ける様子についに観念して、リーンは長い溜息を吐き出した。


「ああもう最悪……結局こいつの名前ひとつわからないし、そもそも私喫茶店で横の二人の会話を聞いてて、そこから帰る途中じゃなかった?んー駄目、なんかそっからこんがらがってる……」


 頭を掻きむしりながらリーンが男の隣に座る。眠る横顔はずいぶんと端正で、おそらく男は顔が整っている部類だ。直前の会話のせいで第一印象は最悪だが、助けられたらしいことは把握しているので、リーンが心底ばつの悪そうな顔をする。




「……ほんと、何なのよこいつ」

『―――テメーこの木偶でくの棒に名前の質問しようとしてたのか?無駄だぞ。覚えてないとか抜かすからな』

「う、うっわ今度は何?!だいぶ汚い声なんだけどどっから誰が話してるわけ!?」


 急に聞こえる金切り声に、リーンが過剰反応を返す。上ずるリーンの声を聞いて、金切り声があきれたように言葉を続ける。


『だいたい向いてる方向だけはあってるぜ、口ばっか回る猪突猛進女』

「ぐ……、あー悪かったわよ。ちょっと直前にキレてたもんだからまだイラついてて。で?私はどこ向いて話すのが正解?」

『ここだここ、テメーが見ている男の胸元。まあ今前かがみになってるこいつを動かすのは骨が折れるだろうからとっとと言うが、俺様はこいつのだ』


 心臓、と聞いたリーンがぽかんと口を開ける。まさかと思ってシャツの中を覗き込むと、胸の中心はやけに血管が浮き上がっているのがリーンにも見えた。謎の男の次は喋る心臓と来て、リーンの頭は情報の整理を拒んでいた。情報の濁流に完全に沈黙したリーンに、金切り声が今度は馬鹿にするように笑い始める。


『まあ一般の人間様にすぐ理解できるとは思ってねえよ。とりあえず……心臓呼ばわりは俺様もしゃくだな。名乗るとすりゃ“世話焼きの隣人ゴーボンレーク”だ』

「……とりあえず天使ではなさそうね」

『まあだいたい正解だ。テメーの不幸は俺様たちの問題でもあるから、ここにいる人間様にもそこそこ優しいが質問に答えてやろうじゃないか』


 演劇のセリフのように言葉を並べたてる金切り声……ゴーボンレークに、リーンはややあきれた目をする。長い言い回しではあるが、その実「話を聞け」としか言っていない。少なくともリーンはそのような評価をした。

 ……ただ、そこは金切声の方が上手だった。その評価を見越してなのか、ゴーボンレークがいやらしい声で言葉を続ける。


『そりゃあ聞かないって選択肢もあるだろうよ?自分で考えた答えの方が楽しいもんなあ、面白いもんなあ。わかるぜ、ー自分が出した意見にプライド持ってんの。幼稚な駄々こねの結果、テメーがどれだけのことを知れるのか……俺はもちろん知らないんだけどさあ?』


 わかりやすい煽りの声に、リーンの顔色が瞬時に変わる。ゴーボンレークは知ってか知らずか……リーンは煽り耐性がとにかく低かった。


「……ふ、ふーん?まあ、判断するのは私なんだけど、話ぐらい、聞いてみようじゃないの…………?」


 務めて冷静に返そうとしているが、既にリーンの拳にははっきりと青筋が立っている。危機感を結果的にいら立ちが上回り、策士に分かりやすく手玉に取られた瞬間だった。

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