倉渕真白 A面
「今日からシフト入るならとりあえず店内の清掃からやってもらうから、あそこのロッカーからモップ出してバックヤードを掃いておいて。フロアはあとで」
「分かった」
「あと今週分の販促用のポップを3日後に仕上げて、店員間で選ぶことになってるから、今の終わったら仕上げて」
「あ、ハイ」
「それが終わったら、今週分の新譜がまだ品出ししきれていないから、あとでやること。それからお客さんの状況観察と掃除のつづきをお願い」
「う、え、おう」
「まあ1日もあれば慣れるでしょ」
「ああ、当たり前だ。…………あ?」
「は?」
どういうことだ。
さっきから妙に人使いが荒くなっている。もしかしてこれが倉渕の本性というものだろうか。それか、パワーレコードで働くと皆このような性格となってしまうという職業病か、どちらか。
仮に本性だとしても、入学から1年と少々の間で一切絡みがない人物だから驚くこともないけれどなんだか怖い。この女子怖い。
そのまま固まっていると、更衣室を出ようとした倉渕がしびれを切らしたように振り返った。
「なに突っ立ってんの、あんた。分かったら早くそこのロッカーからワイパー持ってきて掃除して。あと30分でピークタイムに突入するの」
「ちょっと待て。本当に今のバイト初日の奴にやらせる仕事量か? 」
「妥当な量じゃない。あなた並みの頭の出来ならなんとかなるでしょ」
倉渕は大げさに肩をすくめて、ため息混じりに言う。
頭の出来……
親しい関係ならまだしも、初対面の相手に対して使うような言葉なのか?
いや分からない。
なにしろこの一年半、まともに異性と話した機会は、駅前の駐輪場で怪しげな宗教絡みで絡んできた派手髪の婆さんと、僕がCDの代金に生活費を突っ込みすぎたせいで、文句を言うためだけに飛行機で帰省してきた母さんと、あとこの前の笠懸ぐらいだ。
もともと異性関連の知識なんざ持っていないのに等しいのだ。女子にはなんてことのないフレーズなのかもしれない。
「にしてもなんでこんなヤツが………」
聞き間違いか、と思った。けどはっきりその言葉だけは聞こえた。
倉渕の目が左右に泳ぐ。
「とにかく他の先輩の足は絶対に引っ張らないでよね。今の時期は人手が足りてないし、シフトでも皆入れる時間帯限られてるんだから」
「お前に聞いたらダメなのか?」
「え、あ………………潰す」
「え」
なに急に。
コイツ怖い。
『潰す』ってどういうこと? やり方のよく分からない攻撃が一番怖い。
暴言を吐くにしてもあまりにもそれは突然過ぎて、僕は言葉を失った。
倉渕がなんか文句あんの、という顔で睨む。『ギロリ』と擬音でも出てきそうな顔つき。身長でいえば十センチは下のはずなのに図体の大きな柔道家のような威圧感を感じる。
「ウヘヘ……あ、えと、笑い取るにしても、もうちょい現実味あるものにした方がよかったのかもな」
さすがにこの状況では反論する度胸も言い負かす技術も無い。僕はそそくさと更衣室から出て売り場に急いだ。
「あっ……いらっしゃいませ……」
目の前を、大きなリボンのついた制服を着た女子高生が笑い合いながら通り過ぎる。
今、僕の方見て笑った?笑ったよね?
笑ってなか―――
「いらっしゃいませ〜! お待ちの方こちらへどうぞ〜」
倉渕の甲高い声が狭い店内に反響する。向かいのスポーツ用品店にもこちらを振り返る人がちらほら居る。
時刻は12時を過ぎて昼飯時といったところか。倉渕の予測通り、学校の補習や部活の朝練を終えた高校生で店内は混み始めている。
どこの高校だか、着ている制服やジャージを品出しで横目で追っているうちに、既にレジはフル稼働で動いているのが運悪く視界に入った。休憩はしばらくできそうにない。
こういう状況になるとは知らないで、会話力の低下を看過していた昔の自分が悔やまれる。ただCDを陳列して、店内BGMで推しの邦楽ロックバンドを布教しつつ、リリース前のシングルを聞ければ最高だったが、現実はそう上手いこといかないらしい。
面接のときに店長に聞いた話だと時給も県の最低賃金スレスレ、つまり今のところやりがいになっているのは、従業員割引だけだ。早く給料が欲しい。
「待ってこの男の子超可愛いんだけど。めっちゃ可愛いでしょ、ね、ね? やばいやばい」
「ねえまたジャケ買いするつもり? 一週間前も同じようなこと言ってた気がするんだけど」
「ええでもカッコよくない? カッコいいでしょ? カッコいいよね?」
…………居る。女子が二人。
あそこはたしか、最近SNSでよく見かける韓国系のアイドルグループだったか。ロックしか普段は聞かないから情報が合っているか分からないが、何本かMVは目にしたことがある。
ミュージカルのように流れるようでいて一切乱れないパフォーマンスと、高音から重低音までカバーできる広い声域が特徴的だ。しかも平均年齢も他のアイドルグループに比べれば数年は若い。MindTubeの個人チャンネルでは、ファン層は主に中高生が占めている。
たしか今日は彼らのニューシングルの発売日だ。
「あ」
さっきの女子の一人と目が合う。一瞬僕の顔を食い入るように見たかと思うと「店員さーん? 店員さんですよね?」とこちらに近づいてくる。
「あっ……はい、えっと…そうです」
いつもの独り言にも満たない声量に嫌気が刺してきた。口内に溜まっている筋力だけ使って喋っているような感じだ。
駄目だ。言葉が……言葉が出てこない。
しかもあの二人なんだかギャル……え、嘘だ。
「あそこにある『B’ONE's』のグッズって、他に置かれてたりしますか? それとも売り切れてるとか? なぁんか、友達がいま物凄く食いついてて、グッズの置いてある場所知りたがっててぇ」
「えーと……」
彼女言う通り、彼女の後方には、グッズ棚をいじっているもう一人の女子が目視できる。ポニーテールで結んだ髪から、前髪の分け目にかけて金のインナーカラーが垂れている。
商品から目を離すと、一瞬だけこちらと目が合った。
少しだけ切れ長で、アイシャドウとライナーが黒に浮かび上がる。制服は……うちと同じだけれど、倉渕とならんで面識はない。
「ちょっと、お、あの、他のスタッフに確認するのでお待ちいただけますか」
「あぁ……はい、分かりました」
逃げるようにしてその場から移動した。
自分でもかつてないぐらい舌が回ってない。
それに比べて、なんでああいうタイプってあんなにも舌が回るんだ。
確認作業だけならすぐに戻らないと怪しまれる。
誰かこういう男性アイドルもの……というか、商品の陳列とか在庫管理とか抜け目なく分かっていそうなぐらいのバイト歴で、なるべくなら同年代の話の合いそうな店員に聞きたいところだが。
――まあ、そんな都合のいい人材は居るはずないか。
バックヤードに戻ろうと、STAFFの文字の擦り切れた鉄扉を開けた――感覚はなかった。後ろから、誰かの腕が伸びてきたような気配。
「ちょっと」
「ウゥヴェ!?」
呼吸が出来ない。かろうじて視界が捉えたのは首根っこを掴んで目を見開いている倉渕だった。殺気立った顔つきは、素手で触れたら誰かを刺し殺そうなほど恐ろしい。
「あんた何休もうとしてんの」
「あ……ゔ、てめ、話………きk」
「ねえ、なんで休もうとしてんのか聞いてるんだけど……こっち見てよ……っ、おい答えろ」
ますます息が苦しくなる。かと思えば少しだけ絞める力が緩まって、一気飲みした水でむせたように激しく咳き込んだ。そしてまた、プロレスの3カウントだって数えもしないうちに、同じ握力で頸動脈を圧迫される。
「………はな、離せ…よぉ、こんの…ゔ」
マズい、これは――本当に、堕ちる、じ、死ぬぅ………。
「おーい、やめろよ真白ぉ」
倉渕の後ろにその男はぬっと現れた。
「っ、マキ……!!」
途端に首に掛かっていた力が振りほどかれた。十数秒ぶりの新鮮――とは言い難い、カビ臭い匂いが鼻腔をくすぐる。
すぐさま「ゥウオオオオオォエ」と十六歳未成年男性の汚いうめき声が、狭いバックヤード内に響いた。絞められていたときと落差は激しい。
「ちょっと大丈夫!? 今日ほんとにシフト入ってよかったの? 昨日あれだけ店長に休むように言われたのに。今からでも帰ったほうが……」
倉渕が『マキ』と呼んだ男に駆け寄る。
身長は僕よりも高い。横にメジャーリーガーを並ばせても違和感が無いような出で立ちだ。
「別に大したことは無いから、そんな心配しないでいい。酒も12時間睡眠で相当抜けたから、まあ夜シフトの人が来るまではなんとか持ちこたえられんだろ」
咳払いを一つして、男は僕の方をちらりと見た。
――めっちゃ、格好良いじゃん……
容器から出たての豆腐みたいな色白の肌に、マッシュでまとめられた髪の毛。
金沢駅前をぶらついている私立の奴らの半分はこんな髪型だけれども、なんだか人混みにまぎれても目立ちそうな、妖しげなオーラを纏っている。
「それはともかく、真白、入り口の特設コーナーに居るJK二人組のところ行って来い。今そこの……そこの……あー、男の子がトラブってんのカメラで見てたんだわ。たぶんB'ONE'sあたりの在庫確認」
身体中に悪寒が走った。
この状況で倉渕をさらに刺激させては危険すぎる。だが倉渕はそれほど気にしていないようで、落ち着いた口調で話を続ける。
「……へえ、分かった。マキは? 今の時間帯は店内のほう手伝ってもらわないと困るんだけど」
「言われなくてもすぐに行くよ。ただ少しばかり、そこの坊やと話したいことがあるんだ。いいかな?」
……坊や? あ、僕か。
男は合図するみたいに一瞬だけ、目線をこちらによこす。最後の確認はどうやら僕に向けたものらしい。倉渕の顔が明らかに曇りだした。
だが次の瞬間には「分かった、待ってるね」と二カッとした笑顔を向けて、鉄扉から身体を潜り込ませて出ていった。
目は笑っていなかったが。
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