補習から逃げようの会

 結局、ぶっ倒れた後はそのまま保健室送りになった。


 居合わせた保健室の先生によれば、軽度の貧血が原因らしい。ここ最近、撮り溜め用動画の夜通しでの録音作業が続いていたせいだ。大前先生からは「勉学はともかく睡眠もまともに出来ないのか!」と説教された。


 そう言われても、今のところ音楽よりも優先順位の高い行動は無い。

 歌ってみた動画は定期的に上げなくちゃならないけど、睡眠時間なんて休日にまとめて補填すれば問題ない。

 たぶん。


 黒でぼやけた視界に、だんだんとはっきりした色が浮かんでくると、僕は高校を後にして笠懸家に直行した。


「……だいじょうぶ? お兄ちゃん死んでない?」

 この声は。笠懸の弟くんか。

「ん、とりあえず生きてるから安心しろ、はやと。もう少ししたら外に行くから、お姉ちゃんたちにもそう言ってくれ」

「……わかった」

 そう言って、足音が二階へと消えていった。

「葵姉ちゃーん、おにいちゃん死んでるー」

 生きてるって言ったろうが。あと『いく』って『逝く』って意味じゃないから。そんなナチュラルに死亡宣言するヤツがどこにいる。


 笠懸隼。今年で六歳になる笠懸の弟だ。あの一件以来、約二週間葵と同じように世話係として接しているけど、姉二人とはまるっきり性格が違う――それも本当に同じ血筋なのかと疑うレベルで。


 クラス内では常に友達に囲まれている笠懸に対して、人見知りで家族ぐらいとしか話さない。

 葵が大好きなサイコホラー漫画も見ないし、逆に葵が大嫌いなセロリはバクバク食べる。

 いつも眼が夕立が止んだあとの水たまりのようにキラッキラな葵と対照的に、いつも目が二日酔いしたゾンビみたいに死んでいる。

 家事中、笠懸が僕の出来具合にちまちま文句を言ってくるのに対し、めったに僕に話を投げかけない。


 双子な訳でもあるまいし、性格が似ているきょうだいなんてかなりの少数派か。


 たかだか姉と弟、血は繋がっていても素性は絶対に違う。


 だが世話を見ている以上、気にはなってくる。今度笠懸にでも直接話したほうが良いか。

 

「ねえ、いつまでそこに居るつもり? もう夜遅いんだし大家さんも心配するんじゃない?」

「大丈夫だろ。下宿してもう二年も経つんだ。今さら、帰りが遅いくらいで何もしてこないに決まってる」

「なら、いいけど……あーいや、やっぱ駄目」


 笠懸は無防備な部屋着姿―――な訳は無く、しわ一つ無い学校指定の上下ジャージに身を包んでいた。今のところコイツが私服でいるところは見たことがない。

 対して、学校では下ろしているセミロングの黒髪は、サイドテールの要領で後ろで短くまとめられていた。

 かすかに髪の毛も逆だっている。


「疲れているみたいだけど、用が無いならさっさと帰って。あとは私一人でやれるから」

「いやもうちょっとだけ……、頼むあと5分……」

「寝起きみたいな言い方やめて。たかだか家に帰るくらいでそんな面倒がることないでしょ。まさかここに泊まるとか言い出したりしないよね?」

 そうは言われても、ここからアパートまでは四キロはある。時刻は午後八時を回り、一刻も早く帰ってレコーディングしたいのはやまやまだが、じゃあいざ身体を起こして帰宅できるだけの力があるか、と聞かれたら答えはノーだ。

 それに今日は精神的に重篤なダメージを喰らっている上に、笠懸ブラザーたちのお世話も相まって、心体ともに疲れきっている。ここから四キロ自転車を漕ぐとか絶対に嫌だ。

 だから今こうして、木製のダイニングテーブルに額をついてぼうっとしていたのだ。


 何も事態は進展してないけど。


「んじゃあ、なんか手伝えることはないのか。僕には用無しといってもまだ仕事は残っているんだろう? 出来るようなことがあったらやる」

「え、それ、本気で言ってんの? このままだと高崎は、スーパー・ハイパー・グレート・フレキシブル・エキセントリック変態になっちゃうよ」

「なんだその無駄に長い罵りワードは。絶対適当だろ」

「だって、妹とこれからお風呂入るから」

「了解、察した。もう帰る」

 いくら世話の一環といっても、成人まで二年を切っている野郎が、家族でもない女児と一緒に風呂は倫理的にマズいし、よろしくない。少年法の適用年齢もあと二年足らずで終了だろうし一歩間違えたら警察まっしぐらだ。


 身体を起こそうと、両手で伸びをしたとき。

 昼間の会話を思い出した。


「そういやお前、頭良いんだっけか」

「ん? まあ人並みには良いんじゃないのかな。 この前の俊台模試だって良い感じの順位に入れたし。大ちゃんにも褒められたんだよ」

 大ちゃん? 聞き慣れないあだ名に困惑する。誰だか知らないが男友達の一人だろうか。

 笠懸が僕の向かいの椅子に腰掛けた。

「へえ、ちなみに校内順位は? 」

「んーとねえ……たしか、八位だったかな」

「は?」

「……ん?」

「いや……、喧嘩売ってんのか?」

「売ってないけど。え、今のってそんなに精神えぐるような発言だった?」


 笠懸は何言ってんのと言わんばかりの顔を向けてくる。勉強出来ないやつを怒らせてる自覚ねえのか、お前は。


 どう考えても、校内八位は【そこそこ】と評せるような順位じゃないはずだが。まあ、少なくとも笠懸の頭の良さは理解できる。先生の言っていたとおり、国立の医学部志望なのも、僕を勉強に奮起させる嘘ではなく、確かな情報なんだろう。


「勉強を教えてほしい……?」

「ああ、頼む。少なくとも僕のこれからの人生が懸かってる」

「大げさ……、ていうか自分の人生は『少なくとも』懸けるもんじゃないからね? それやったら最終手段だから」

「やかましい! 僕が身を持って捧げられるのは音楽しかないんだ。勉強なんかに時間と頭を割いてる暇は作れねえんだよ」

「だったら通信制高校にでも入ればよかったじゃん。泉高行くよりも断然自由度高いんだし。なんで毎日嫌でも人と顔合わすような学校選んだの? 」


 言葉に詰まった。

 目の前のコイツを信頼していないわけではないが――――。まだ志望理由を気軽に話せるほどの関係じゃない。


 僕と笠懸の関係はあくまでも、僕の秘密――歌い手の活動をしていること――を守る上での約束で成り立っている。

【友達】? 【理解者】? 【恋人】? 違う。

 僕らは【他人】同士だ。


「まあ別にそれはいいとして――私が勉強を教えることは難しいかな。私はそっちと違って勉強に時間割く時間を『作んなきゃ』ならないんだからさ」

「そうか……」

 と、机の上に小さい腕がのびてきた。手には近所の学習塾やら、スーパーのセール告知の広告が握られている。

「ありがとー、葵」

「んんい。おにいちゃん強く生きてね」

「……? いきなり何のアドバイスだ」

「隼がさっきおしえてくれた。おにいちゃん死にそうなんでしょ」

「んな訳あるか。いたって健康体だぞ、僕は。簡単には死なないからな」


 今日貧血でぶっ倒れたけど。

 最近、昼夜逆転しまくってるけど。


 葵はぷうっと頬をふくらませて「へー」とだけつぶやいた。僕の返答がつまらなかったのか、そのままリビングを出て階段を上がっていく。


「しっかし、私が教えられないとなれば、君は塾とかスタサプとか利用するしかなさそうだね。それか、観念して強制補習を耐え抜くか。二つに一つだよ。どうするつもり? 」


 そう言いながら、笠懸は数枚の広告をつかみ取ってパラパラ見始める。


「でも時間とられるんだろ、どうせ」

「決まってるじゃん、勉強なんかお金と時間さえかければいい成績とれるんだよ? 」

「そんな無茶なこと言うな。ただでさえ、こちとら健康と生活費を犠牲にして音楽活動してるんだぞ。これ以上何か犠牲にでもしたらいよいよ壊れる」


 ああ、もう嫌だ。音楽、音楽、音楽のことしか考えたくない……!!


「ん?待ってよ……?」

「どうした」

 笠懸は急に真面目な顔つきになって、こちらを見つめる。

「結局のとこ、自分の健康と生活費さえ解決すれば、君でも勉強に立ち向かえるんだよね?」

「ん……、まあそうだな」

 正確には、楽して補習に引っかからない程度の成績をとりたい、というのが本音だが。


「高崎、バイトしてみない?」







 























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