音楽に嫌われている。

 夏休みを十日前に控えた、ある日の昼休み。僕は担任から呼び出しを喰らっていた。

「何か用ですか」

 帰り際に指定された部屋は、ここ、進路指導室だ。名前が名前なうえ、もう大体何を言われるかは予想はついていた。ここで何をとがめられて、何と文句を言われて、どういう決定を下されるのかも、大方察したとおりに違いない。


 担任で英語担当の大前おおまえ先生は、部屋に入ってくるなり僕の正面にあるパイプ椅子に腰かけ、手に持っていたファイルから、大小二枚のプリントを取り出した。

「ここにあるのは、この前の俊台模試の成績表、そしてこれはお前の書いた進路調査票だ。何を言いたいか分かるな? 」

「……はい、分かり、ま、ぐうぅぅぅぅ」

「寝るな阿呆!」

「痛っでええええええ!?」

 突然、膝の上に置いたはずの、右手の指関節に激痛が走った。知恵の輪みたいに、一本一本あらぬ方向に捻じ曲げられた指が一瞬目に入ったのち、ほどかれる。

「いきなり何するんですか! ちょっとうたた寝しただけなのに。痛った……」

「馬鹿かお前は。居眠りしてる奴を発見すれば、俺が実力行使に及ぶことぐらい、担任になって三か月も経つのだから既に知っているだろうが」

「……さも当たり前のように、体罰を明言しないでください」

「本格的に折ってやろうか」

「ああ、ストップ、ストップ!」

 深いため息をついて、「もういい、話を戻す」と言い放つ先生。


「とりあえず模試の結果見てみろ」

 言われた通りに、俊台模試の成績表をちまちまと手でたぐりよせる。表紙から得点や順位は見えない。

「おい、なに成績見るぐらいでビビってんだ。そんなに現実を受け入れるのが怖いか?」

「……だって、赤点はイヤ、ですから」

 泉高では、定期模試で一教科でも三○点台―――つまりは赤点を取ると、即刻補習が確定する。そうなれば当然、大事なレコーディングの時間も削られてしまうことになってしまう。

 葵ちゃんと隼くんの世話で、既に時間が少なくなっている状況だ。これ以上、自分の失態で動画の投稿頻度の低下に拍車をかけたくない。


「なんだそんなことか。それなら心配はいらない」

「え……、じゃあ赤点回避――」

「心配せずともお前は補習行きだ」

 得点と順位が印刷されたページと、先生の声が聞こえるのが同じタイミングだった。



 個人成績表


 ◇一 教科・科目別成績


 ●英語 28/200

 ●数学 87/200

 ●国語 89/200


「終わった…………」

 もうおしまいだ。笠懸支えたいとか、あんな考えも全部想像だ。前言撤回。

 ああなんで赤点なんだろな。ちゃんと勉強したんだけどな。おかしいな。音楽聞きながらぶっ通しで参考書眺めてたんだけどな。おかしいな。ていうか補習のシステムもおかしいよね。

 ああ、もうこの際どうでもいいや。ゴーゴーカレーになりたい。


「その上で、この進路調査表は一体どういうつもりだ?」

 半ば自暴自棄になりながら「考える人」の銅像のようにうなだれていると、眼前に見えたのは『進路調査表』と妙に格式ばった字だった。

 こんなもの、書いたっけ? 正直、こっちは音楽で手いっぱいだったから、提出日の朝に適当に記入したに違いない。


「なんて書いてある?」

「ええっと……『音楽界に貢ぐ生活がしたい』とだけ」

「馬鹿者! お前の理想を聞いているんじゃない!」

「えっ、なんで怒るんですか!? 自分で言うのもなんですが、かなり高い、その……志を書いたつもりなんですけど」

「黙れ」

 先生は目をキッとつり上げて、昔のディズニーアニメで見るような、番犬そっくりの表情をした。さらに「ああもう」と叫び、髪をかきむしり始めた。

 ハネまくりの黒髪がさらに不規則な形になって、まるで頭上を竜巻が通過したような髪型になった。


「こんなこと説明するまでもないが、その紙には普通、志望大学とか将来の夢なんかを記入するもんなんだ」

「『音楽界に貢ぐ生活』も十分、将来の夢に値すると思いますけど……」

「これのどこが具体的だ! ったく、お前は本当に……せめて『何をしたいのか分からない』って理由だったらまだ納得できるってのに。笠懸でも見習えってんだ」

「笠懸を?」

「あいつは志望で、模試でも成績が二年に入ってから安定している。将来設計もしっかりしてるしな。お前ロクにやってないだろ」

「ぐっ……ちゃ、ちゃんと僕にだって人生プランはあるんですよ」

「ほう、どんな?」

「音楽で世界を制する……?」

「言ってること変わってないだろ、この阿呆が!」

「あああああああ!! もう指痛めつけるのはやめてくださいっ!」


 さっきより短めの激痛に耐えた後、先生は再び僕に向き直った。

「ともかく、補習はどう足掻いても逃げられないからな。必ず参加しろ」

「……はい」

「あと、この調査表も書き直しだ。夏休み中に書き直してこい。ああそれと」

「まだなんかあるんですか」

「分からないところとかあったら、誰でもいいから教えてもらえ。お前の解答を一通り見させてもらったが、正直、休み期間の補習でも教えられる範囲は限られてくるからな」

「大丈夫ですよ。僕がどれだけ他人に力を借りようとも、平均点ぐらいが限界と思うので」

「いいから他人を頼れ」


 僕が「はい」と答えようとしたときだった。突然視界がハエの大群に出くわしたみたいに、黒く歪んだ。

「あ、れ……?」

 やがて、体全体がひんやりと冷たくなっていく。なんだか立っているのも辛い。先生が何か叫んでいるような気がするが、言葉ははっきりと耳を通らない。

 額に冷や汗が垂れてきたような感覚のあと、僕の記憶は途絶えた。


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