最悪の事態

「ヤバい、ヤバい、ヤバい、ヤバい…………」

 あの日から今日で丸十日まるとおかが経った。

 学校から帰宅し、やることといえば曲の録音と、他の歌い手さんの投稿チェックと邦楽の聞き流し以外にない。ていうか、他の分野にまるで興味が湧かない。

 だが、今日は珍しく僕は自室のデスクトップパソコンの前に座っていた。開いているのは編集ソフト………ではない。ただのメモソフトである。奥にはボーカルマイクとスタンドが神社の狛犬こまいぬみたいに鎮座している。

「なんで……あんなこと言ったんだよ、もう………クソッタレが」

 言いながら、黒のゲーミングキーボードを思いっきり叩く。

 一行、また一行文字列が並んで、数時間後にはその横に赤バツがつけられる。今日だけでも、もう四つだ。


 ○部屋のCDを全て、笠懸さんに譲渡する。 ✘

 ○自由に僕の部屋に出入りする権利を与える。 ✘

 ○僕の部屋のうち一部屋を開放、及びそれに対する租借権を笠懸さんに与える。 ✘

 ○貢ぐ。 ✘


 こうして見ると、江戸時代末期の不平等条約みたいだな。

 だが僕は外国に縁もゆかりも……ない。


 *              *           *


「これ…………僕なんだ」

 スマホの画面を突き付ける。もう何を理由にしても無駄だと悟った。観念して真実をカミングアウトするしかない。

 笠懸さんは前かがみになって、それをまじまじと見つめる。

 くっっっそ…………不法侵入だのストーカー行為だの、ほぼほぼ犯罪者同類の行動をしてたくせに、よくもまあそんな幼稚園児みたいな目ができるもんだな。


「はああああああああ!?」


 は?予想外の反応に僕は硬直する。


「え、ちょ…待って待って………はああああ!?な、なな何言ってんのいきなり!?」

「笠懸さん?」

「『笠懸さん?』じゃないでしょ!!!なにこれ!?た、た、たたた高崎って、RAHATEだったの!?」

「はあ!?知らなかったのか?」

「知るわけないっ!!なにさも常識ですみたいに言ってるの!」

 反対の歩道を歩いていた、女子中学生のグループがこちらをジロジロ見ながら通り過ぎる。

「だって……見たんだろ?あのCD部屋………」

「えっ?まあ見たけど、それが?」


 そ  れ  が  ?


 え、嘘だろ嘘だろ……。この返答だともしや分かってない?本当に僕がRAHATEなの知らないとか?

「……奥のほうにマイクが置いてあったんだけど」

「ほう、それで?」


 そ  れ  で  ?


 今の話の流れからして、分かるだろうが‼歌い手だから、レコーディングすんだよ‼なんで変なところで鈍感なんだ、こいつ!!

「…録音してこれにあげるんだよ」

 僕は自分のスマホを指さす。

「あっ……あと笠懸さん僕――RAHATE――のこと僕の目の前で話すから……」

「それがなに」

 僕は両手を膝にあてた。

「挙句の果てに僕のことじっと見つめてきたから、脅しに来てるんじゃないかと……」

「そんなの高崎の妄想でしょ?アーティストの話なんて、普通に人前でするよ。高崎に限らず」

「え、じゃあ……やっぱり僕がRAHATEだってこと分からなかったの!?」

「だからさっきからそう言ってるじゃん!!なんで伝わらないの!」

「こっちはいつその情報がバラされるか、気になって気になってしょうがなかったんだぞ!あああぁ……僕の心配と不安と恐怖を返せよ……!!」

「返すも何もただの自滅だよ、それは」

 グハッ……全部笠懸さんの言う通りだ。自分で勝手に解釈して、行動に出て、正体をばらして…………ああ、もう本当に馬鹿だ。


 *              *            *


 結局、何も言い返すことなくアパートに戻ってきた。ああ、もう何もかもがうざったい。自転車を漕ぐのも面倒で、そのまま押している。

「……ねえ高崎」

 後ろから笠懸さんの声がする。

「話しかけんな。僕は今、心に深い傷を負ってるんだよ。ていうかいつまでついてくるんだ、本当に通報するぞ!?」

「あのさ……大事なこと忘れてない?」

「大事なこと?」

 足を止める。丁度アパートの目の前だった。

「さっさと言ってくれ。早く部屋に入りたいんだ」

 そばの駐輪場に自転車を止めて僕は言った。笠懸さんは少しニヤッとした顔を作って、途端に口を緩める。

「高崎が歌い手だって知ってる人、どれくらいいるの?」

「……えっとぉ……親とあいつと」

「あいつ?」

「ああっ…いや、なんでもない」

「ともかく、その人たちしか知らないわけだよね」

「そうだ」

「じゃあ……」

 笠懸さんは自転車ごと方向を変えて、



「言いふらしちゃおうかな」



 ………はあ??

「え、今なんて……」

「じゃあね」

 自転車が走り出す。セミロングの黒髪がふわっと揺れた。

「ちょっと待ってくれ!!!」

 僕は大声で叫んだ。逃がすか。クラス中に伝わったら、きっと、きっと僕は……

「ん」

 声に気づき、笠懸さんはアスファルトに片足をついた。

「はぁ……はぁ……お願いだ、それだけはやめてくれ」

「なんで?歌い手だって広まったら、何かヤバいことでもあるの?」

「あるんだよ‼」

 自分でも驚くぐらい必死になっていた。笠懸さんも目を見開かせる。

「そう……」

「分かってくれたk」

「――そのかわり」

 笠懸さんが僕の言葉をさえぎって言った。

「私のためになることを何か提案して」

「…………へ?い、言わないつもりじゃ」

「不公平でしょ、そんなの。期限は二週間。考えたら私のとこに言いに来て」

「おい待て。僕は応じないぞ、別に故意に暴露したわけじゃない」

「期限過ぎたら言うから。……言っとくけどだから」

 笠懸さんは一歩的に告げて、そのまま自転車で走り出した。僕は止められなかった。


 *            *                 *


 そんなこんなで、僕はたった二週間で、笠懸さんのためになることを提案しなくてはならなくなった。あとから分かったことだが、僕がいくら提案しようとも彼女がそれを承認しない限り、僕の正体が暴かれるのは変わりないらしい。

 ……改めて思ったが、“笠懸さんのためになること”って何だよ。回りくどい言い回しだし、何よりも『ためになること』の範囲が広すぎる。

 CDを貸す、アーティストの豆知識を授ける、発声法を教える、などなど笠懸さんにとってメリットになる行為は上げたらキリがない。

 けれど、このおかげで、今のところアイデアは尽きずに済んでいる。

 結局、全部笠懸さんに却下を喰らっているが。

 ああ、分かっている。あと四日で笠懸さんの承認を得られなければ、問答無用・言語道断・泣く子も黙るSNSとやらで、僕の最高機密が暴露されてしまう。

 この最悪の事態はなんとしても避けなければ。


 もし、あいつらに知られたら。


 そのとき、急に体中に悪寒が走った。息苦しい。と同時に腹をパイプ椅子で殴られたかのように、胃がうずうずしてきた。

 ヤバい。吐きそう。我慢できない……

 次の瞬間、無我夢中で僕は部屋を飛び出した。数歩先のトイレに駆け込む。そして身体中の液体を全て放出するぐらいの勢いで、盛大に吐いた。


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