夜涼、眠る病室
那譜 彗音
夜涼、眠る病室
夜の底、僕は君を想っていた。
病室に鈴虫の鳴く声が響いている。それくらい、静かだった。
カーテンをそっと開ける。シャッ、と短く音が鳴る。
月明かりが、僕を照らしている。
君を想うだけの日々を続けて数十年。随分と長く生きて来た。
君がこの世界から消えてから、何の意味もない日々だけが、走馬灯のように過ぎ去って行って、僕に残ったものは、何も無い。
月明かりに照らされた掌を見る。そこには数多の皺が、弱々しく刻まれている。窓ガラスに映った髪は白く光っていた。
僕の人生は、君と過ごしたあの夏で止まっている。これまでの数十年間、僕はずっと、夏を過ごしてきた。苦しいほどに暑い夏。嫌なほどに煩い夏。
もう夏も終わる。明日の昼にでもなれば、この苦しい夏から解放されるに違いない。
どうせ悲しむ家族も友人も恋人もいない。
唯一僕の死を悲しんでくれた可能性のある人物は、もうこの世から消えてしまっている。
思い残すことはない。数十年前の夏、あの時に僕の人生は終わっているようなものだ。
人生最後の日を惜しむより、夢で君と逢った方が、どれだけ幸せだろうか。
僕の人生最後の日くらい、君に笑っていて欲しかった。
君を笑わせる権利も方法も僕には無いけれど、君の最期、あの笑顔を思い出すくらい、良いだろう。
そう言って涙を流している僕を笑っている姿でも良い。愛想笑いでも良い。
ただ、笑って欲しいだけだ。
そっと、瞼を閉じる。
月明かり。鈴虫の哭く声。空いた心の穴。君と歩いた畦道。蛍狩り。晩夏。
熱い瞼の裏で君が笑う。
空いたままのカーテン。
男は死んだように眠っている。
夜涼、眠る病室 那譜 彗音 @feconicu
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