スパイダー・ブルース

あざらし

第1話

 生来、おれは恋愛というものがへたくそだった。


 市民公園のウッドベンチにどっかと腰を下ろし、空を見上げると、夜はいくばくかの雲を蓄え始めていた。天気予報によると降水確率は四〇パーセント。肌で感じられるくらいの湿気が暑気と合わさり、じっとりと不愉快な夜だった。

 雨が降っていたら最悪だったな、と思った。しかし、もしも雨だったなら、おれはそもそもこんなことになっていなかったかもしれない。因果とやらはこれでもかというほど複雑に入り組んでいて、何をどうすれば最良の結果がもたらされるかなんてわかったもんじゃない。――どうすれば彼女と別れずに済んだのか? そんなちっぽけなことさえ、さっぱりわからん。

 おれはコンビニ袋から缶ビールを取り出し、かしょんとプルタブを起こした。夜回りの巡査にでも見つかれば帰って飲めと言われるだろうが、こんな気分のままおめおめ家路を歩くのは御免だった。

 いつも買うものより単価百円高い銘柄は、香り高く、味が鋭い。苦味はすみやかに味蕾に浸透する。好みかどうかはともあれ、特別感はあった。

 ビールという飲み物はひと口目が一番うまい。逆に言うと、それ以降はただ酔うための惰性に近づいていく。ぐびりぐびりとやりながら、脳の深部に麻酔をかける。おれは自分があまり酒に強くないことを知っている。一本飲むだけでしっかり酔えるし、二本飲めば宿酔いが確定する。三本目まで行くとその晩の記憶が怪しくなって、それ以上飲んだことはいまのところない。ろくでもない状態になるだろうことだけはわかっている。おれはいつにないペースで一本目の缶を干し、二本目に手を付けた。

 袋の中にはまだまだ、高級感のある缶が鎮座ましましている。おれはもう、今晩ろくでもない目にあった。これ以上どうなろうが知ったことかと思っていたのだ。

 国道沿いの公園は、そばの歩道にまだそれなりの人通りを残していた。ちらちらと寄せられる視線も、じき気にならなくなる。アルコールが意識の窓に霧をかける。霧は覚醒と就眠の境目をも曖昧にして、おれの皮膚が持つ抗力を弱くする。気を抜けば夜に溶けてゆくかのような半透明の感覚に、おれはからだを委ねようとしていた。

 何もかもを手放す寸前で、頬にはたかれるような衝撃があった。はじめは無視していたが、繰り返しの刺激にかろうじて視覚だけが引き戻される。

 公園の外灯を背負って、黒い人影。丸みを帯びたシルエット。長い髪の残像から甘い匂いがしたようで、おれはつい恋人だった人の名前を呼んだ。


「残念だけど、あたしそんなに甘ったるい名前してないわ」

 黒い影は呆れたような声でそう言った。それでようやく、どろどろになっていた意識の回路が修復された。

 焦点を正しく捉えた目が、シルエットのディテールを彫り上げる。まっすぐ伸びた黒髪、切れ長の目、高い鼻、薄い唇。着丈に余裕のあるシャツに細いジーンズを履いて、黒のスニーカーとボディポーチがいいアクセントになっていた。

 面影は、髪が長いということ以外はまったく重ならない。どこか見覚えのあるような気はしたけど、泥濘から抜け出したばかりの思考では判然とせず、おれはまばたきを繰り返した。

 おれが何かを口にするよりも前に、その子は「大丈夫?」と言った。

「なんだってこんなとこで飲んだくれてんの。もう夏だっつっても、風邪引くよ」

 ほっとけよ、と言おうとした。喉は掠れていて、実際には弱々しい唸り声のようなものが出ただけだ。握っていたアルミ缶は知らぬ間にからになっていて、おれは唾を飲み込んで喉を気休め程度に潤し、舌で唇を湿した。

「……そっとしといてくれよ。関係ないだろ」

「あたしだって、本音言やほっときたいよ」髪に手櫛を通しながら、その子は言った。「でも、人道的にどうなのって思うでしょ。一応、まったく知らん相手でもないしさ」

 おれはたぶん、間抜けな顔をしていただろうと思う。それが誰かなんてまったくわからなかった。記憶に照らそうとしても酒精の霧が邪魔をする。その表情で察されたらしい、その子はもう一度呆れたようになって、甘ったるい名前を口にした。

「あの子の彼氏でしょ、キミ。マンションで何回か会ったじゃん」

 芯の通った瑞々しい声だった。脳の特定の部分にかかっていた霧だけが、さっときれいに払われる。

 思い出した。言われたとおり、まったく知らない相手じゃない。だけど、知人とも呼べないくらい浅いその関係性で、向こうがおれを覚えていたことが驚きだった。

 たしか、あいつはサエと呼んでいた。マンション住まいのあいつの隣人だ。確認するようにその名前を呟くと、やっとわかったかと言いたげにため息を溢された。

「なにやってんのさ、こんなとこで。あの子とケンカでもした?」

 動揺やら知り合いに醜態を見られた気恥ずかしさやらなんやらで、まともに返事をすることもできない。しどろもどろになっていたら、「もしかして、フラれてたり?」、図星のど真ん中をぶち抜かれてしまった。

 どう取り繕ったものかと考えたが、なまくらな頭には何ひとつ冴えたアイディアが浮かばない。おれはもう、そのとおりでございますと観念するしかなかった。


 サエはおれの買い込んだビールに目を留め、隣のベンチに腰を下ろした。愚痴を聞いてもらったというのか、酒の肴にネタを聞き出されたと言うべきか、とにかくおれは洗いざらいをサエに話すことになった。サエはどうやら竹を割ったような性格で人懐っこく、アルコールが回るとその気質はさらに顕著になるらしい。おれの悲恋はからからと笑い飛ばされた。

「なんつうか、ご愁傷さまだねえ」

 ものすごく雑な慰めでしめくくられたが、たぶんそれくらいが総括にはちょうどいいのだろうと、自分でわかっていた。彼女――正しくは元彼女だが――との交際は、おれには荷が重かったのだ。

 なにせわがままなやつだった。デートは毎回あいつの行きたいとき、行きたいところ、誘いを断れば不機嫌になり、行ったら行ったで疲れてくると不機嫌になる。ほかにも、レポートの手伝いにおれを呼んだり、おれの参加しない飲み会でおれを送迎に使ったり、ブランドものの限定品を買う列におれを並ばせたり。そういうエピソードが積もり積もっての今日だった。

 あいつは家にでかい蜘蛛がいると泣き言を言っておれを呼び出した。仕事終わり、明日が土曜だからとのこのこ行ってやったおれもおれだが、こっちに浅ましい野郎の期待があったことくらいわかってほしい。花金の夜に彼女から呼び出されてなんの期待も抱かない男がいたとしたら、そいつは不能かゲイかどっちかだ。おれはどちらでもないというのに、しかしあいつは蜘蛛をどうにか除去したおれに、甘えた声で礼を言っただけだった。その時点で悪寒は背筋のあたりを冷たく焼いていた。

 泊まっていいか、おれがおそるおそる訊ねると、気分じゃないから無理とあいつは即断だった。おれだってカカシやマネキンじゃあない。恨み言のひとつくらい出るわけで、それを皮切りに喧嘩になった。

 開幕からあいつの悪罵は強烈な鋭さをしていて、何度目かの応酬を終える前にもう手遅れだと薄々わかった。それならせめてこっちから別れを切り出すべきだったろうに、女々しく繋ぎ止めようとして結局は切り捨てられる始末。

 毎度毎度、色恋をしようとしてはへたを打ってばかりいる。

「情けないったらねえよなぁ」

 俯瞰してみた自分への感想は当然そうなる。サエは正直に相槌を打った。

「まあね。何が一番情けないって、公園で潰れてたとこだけど」

「その上、共通の知人に見つけられるってオチまで付いてやがる」

 のっけから恥を晒していたこともあって、失敗談もどす黒い感情も赤裸々に話せた。たいていの酒の席において、そのたぐいの話はまず外れない。サエがあんまり気持ちよく笑うので、おれも一緒になってげらげら笑った。

「キミの話だと随分ひどい女に聞こえたね。なんだってずっと付き合ってたの、もう結構長かったでしょ」

「しゃあねえだろ。こう……なんて言うんだ。具合がよかった」

「うわあ。エロ親父」

「そこまで歳いってねえよ」

「言い方がおっさん臭いんだって」


 ついさっきまでの自棄が嘘に思えるほど、サエとは楽しく酒を飲むことができた。おれは笑われたし、小馬鹿にするようなことを言われもした。それでも嫌悪感はちっともなかった。サエのそうした軽口はあくまで冗談の範疇を超えず、おれの傷を抉ろうとはしない。言葉に刺さったささやかな棘は、豊かな親しみと深切に混ぜられて会話を盛り上げるスパイスになっていた。

 ぼやけた灯りと蒸し暑さ、耳元でときおり鳴る虫の羽音。そうした環境下にいてなお、いつまででも酒を飲んでいられるとさえ思った。この居心地の良さは、きっとサエの天稟によってもたらされたものなのだろう。

 対話の切れ間に首をもたげると、夜の更けるうちに雨雲は去ったらしい。月はまだ隠れているものの、ポラリスの瞬きがきれいに見える。失恋の感傷は鎮まりつつあった。夜が明けて、霧の麻酔から覚めても、宿酔いの頭痛に苦しむくらいで済む気がしている。

 サエが何本目かの缶ビールを干したのを見て、おれは「帰るよ」と言った。

「そろそろ。眠気も醒めちまった」

 サエは頷き、「ごちそうさま」と空き缶を掲げた。これまでに経験したどんなデートより気楽で、安上がりな夜だった。苛立ちはなく、わだかまりもなく、ただ快い酔いに充たされている。

 女性と飲んでこうも安らかにいられるなんて、生まれてはじめてのことだった。


 たとえば、連絡先を訊いたとしたら――サエは嫌な顔をするだろうか?

 そうやって手をこまねいているのは馬鹿らしいことだと思った。相手の気持ちを慮っているふりをして、実のところは保身がしたいだけだ。もう決まった恋人がいると言われるかもしれないし、そうでなくとも対象外と断じられるかもしれない。断られたら当然傷つく。

 だが、いまさら傷のひとつやふたつが増えたからって何だという話じゃないか。

 おれはポケットの中の携帯を握った。

「ちょっと聞いていいか」

 サエはコンビニ袋に空き缶を詰める手を止めて、「どした?」と首を傾げた。おれが携帯を手にしているのを見ると、何かを察したようにへらっと笑う。

「あたし、虫とか平気だからさ」ごみの片付けを再開しながら、サエは意地の悪い声をしていた。「蜘蛛の処理ができるって言われても、魅力は感じないな」

 明確な拒絶としても受け取れる言葉だ。だけど、声を纏う戯れるような響きが、おれに踏みとどまることを許している。

「そりゃちょうどいいや」

 おれは開き直って言った。ほんのわずか、サエが眉をひそめる。

「……ちょうどいい? というと?」

「おれ、本当は蜘蛛苦手なんだよな。っつうか、虫がもうだいたい無理」

 ぽかんとして、ひと呼吸分くり返されるまばたき。それから、そんな笑うか? と思わず口を突くくらい、サエは大笑いをした。ぬるま湯のような夜を沸き立たせる大音声。その熱が、不思議なくらい心地いい。

 引き笑いがようよう収まると、口を縛ったゴミ袋をベンチに転がして、サエは目尻に浮いた涙を拭った。

「あはは、笑った笑った。いいね、キミ。いい男じゃん」

「そりゃあどうも。あんま素直に喜べねえけど」

「いやいや、褒めてるんだよ。ほんと」

 サエはボディポーチのジッパーを開け、携帯を引っ張り出した。すいすいと何事か操作をして、ディスプレイをおれに向けてくれる。

 恋人と別れたその夜に、たぶんおれはナンパをしている。やはりおれは恋愛がへただ。節操なしだと詰られても仕方ない。それでも、目の前に垂らされたその糸を掴まずにはいられなかった。

「これ、あたしの番号。……家に虫がいますとかって電話してくるのはやめてよ?」

 するわけねえだろ、おれは苦笑いをした。

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