第84話


「──まやちゃん」


 雨の音に混じって聞こえた声。俯いていた顔を少しだけ上げると、黒いスニーカーが見えた。なんとなく目の前の人が誰なのか分かって傘を上げる。



「……神永君」

 傘も持たず雨に濡れて。走ってきたのか息が上がっている。

 私と目が合うとひどく辛そうに顔を歪めた。


 神永君のほうが泣きそうなのはなんでだろう。


「私の傘なんて……先生には必要ないって、わかってたのに。それでも期待しちゃう私は、馬鹿なんだね。神永君のこと、言えないや……」


 渇いた笑いが出て、神永君を正面から見れない。酷い顔をこれ以上見せたくなくて俯き傘で顔を隠す。


 ──涙が零れたところで雨に隠せるんだから下を向いたって平気。



 するとそんな私を見て目の前にしゃがみこむ。そして大きな手で両頬を包み込んで顔を上げさせられ、強制的に神永君を見つめる形になった。


「……まやちゃんは傘なんて持たなくていいの。まやちゃんが傘を忘れたって、俺がいつだってまやちゃんの傘になるから。いつだって、差し出すから。どんなものからだって、まやちゃんを守ってあげる」


「それに『先生』が必要としなくても、俺がまやちゃんを必要としてる。まやちゃんがいないとダメなんだよ。まやちゃんが笑っていないと、ダメなんだ」


 甘いセリフは先生を思い起こす起爆剤だったはずなのに。


 「まやちゃん」って呼ばれると先生に呼ばれたみたいで嫌だったのに。


 今の彼が紡ぎだす言葉は全てむず痒くて、久々に感じたあの胸が締め付けられる感覚に陥る。



 神永君の優しい瞳が涙腺を刺激してくるから、それを耐えるために唇を噛みしめた。


「……馬鹿じゃないの。傘、持ってないくせに」

 カッコつけて言ったくせに、肝心のものを持っていない彼。


「あれ、ほんとだ」

 なんて今気付いたみたいだけど、焦る様子なんて一つも見せなくて。


「朝持ってた傘は?」


「急ぎすぎて、学校においてきちゃった。次はちゃんと持ってくるね」


 にっこり笑った神永君はこんな天気の中でも眩しいくらい輝いていて、目を細めてしまう。


 ──先生との「今度」は来ないって思ったのに、神永君との「次」はなんの抵抗もなく受け入れられるんだね。


「いい加減だなあ」

 何だか悔しくてそう突き放してみても


「……でも、まやちゃんに対する気持ちはこれっぽっちもいい加減じゃないよ?」



 ──彼の得意のポジティブ変換にはやっぱり勝てない。




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