14

 次第に私は落ち着いてきた。落ち着いたら、面白いことに、お腹が空いていることに気がついた。お腹が空いている! ちょっと嬉しいな。だって、生きてるって感じがするじゃない。


 帰るのは遅くなるだろうなと思ったから、おやつは多めに食べてきたんだけど、夕飯はまだ。おうちに帰りたい。早くおうちに帰りたい。帰って、お父さんとほたるちゃんと一緒にご飯食べて、温かいお風呂にゆっくりつかって、そしてお気に入りのお布団にくるまれて眠るんだ。


 朝までぐっすり。夢も見ずに。


「……家に帰りたいの」


 ようやく泣き止んだ私は、くまに言った。くまがほっとした声で、私に言った。


「そうだろう。ここに長くいるのはあまりよくないことだしな。私たちが、君たちの世界へ通じる穴を開けておいた。ただ、長くはもたない。早くしたほうがよいだろう」


 そうだ。そのとき、私ははたとあることを思い出した。とても重要なこと。すっごく重要で、くまにぜひ聞いておかなければならないこと。


「ねえ、くま。くまって、奇跡のように美しいって言ったよね。私は見えないんだけど、でもそれって本当――?」


 くまの笑い声がした。


「本当だよ。私たちは一つのものであるけれど、でも個々に違うものでもあるといったろう? だから多少、姿形も違うんだ。そして私はその中でも特別に美しいんだ。本当だよ」


 くまは笑いながら、力をこめて言う。


 うん。じゃあ、本当ってことにしておこう。




――――




 そこはドームのような場所だった。いつの間にか私は、謎の液体の中から出て、そこに立っていた。


 丸い屋根が天を覆う。天井はうっすらと黄色を帯びた白。周りの壁もそう。私は白いコンクリートの上に立っている。


 地上の多くの面積を占めるのは巨大な水たまりだ。いや、水たまりというのは違うかも。湖のようなものだ。風もなく、波も立たず、鏡のようにそこに存在している。私は思った。これがくまとその仲間たちなんだ。私はついさっきまで、この中にいたんだ。


 くまが言っていた、元の世界に戻るための穴を探すと、すぐ近くにあった。私たちがここに来るときに通ったような、青白い渦だ。そして、また違うものも見つけた。湖のほとりに誰かがいる。こちらに背を向けて、湖を見ている。長くつややかな黒髪。睦月さんだ。


 私は睦月さんに近寄った。睦月さんが私に気づいて、振り返った。


「ミュウから話を聞いたの」


 睦月さんが私に言った。「私たち――踊らされてたんだ」


 違うよ、と言いたくなった。でも言えない。踊らされていた――のかもしれない。目的を告げられず、整えられた舞台の上で、私たちは踊らされていた。


 そう、舞台の上で。くまとその仲間たちが作った舞台。


 後藤先生の言葉を思い出した。ゲームみたいだ、って。絶対に負けないゲーム。それはたしかに、正しかったんだ。


 だって、最初から、そういうふうにできてたんだもの。


「……でも……ミュウが助けてくれた」


 睦月さんがまた、湖に顔を向けた。「律の力で場が不安定になって、私たちも巻き込まれた。それをミュウが助けてくれた」

「ミュウと、その仲間たち、だよ」


 私は言う。ミュウだけじゃなくて、私のくまも入ってるんだよ。くまは、ピンチのときは助けるから、と言っていた。それは本当だった。たくさん隠し事をされていたけれど、でもそれは本当だったんだ。


 睦月さんが動いた。湖に近づく。しゃがみ込み、手を伸ばす。でも触れる寸前で――やめた。触れるのをやめて、手を引っ込める。立ち上がり、再び元の位置まで下がった。その表情は硬いものだった。まだ、全てをあまり上手くのみこめていないかのような。


 わかるよ。私も同じだもの。


「――何が欲しかったの?」


 私は尋ねた。睦月さんはこちらを見る。


「何、って?」

「異世界にまで来て、一体何が欲しかったの?」


 以前は教えてくれなかったけれど、今なら教えてくれそうな気がした。睦月さんは私から視線を外し、湖を――ううん、そのもっと遠く先を見つめているような表情を見せた。


「時間を操る力が欲しかったの。過去に行きたかった。過去に行って――今を変えたかった」

「今を変えるって……具体的に何を変えるの?」

「――楓の転校を阻止したかった」


 私は一瞬、虚を突かれてしまった。楓ちゃんの……転校を阻止する? 変えるって、家庭環境に関する何かを変えたいのかな、と思ったんだよ。でも――楓ちゃん?


 私が面食らっているのに気づかず、睦月さんは話を続ける。


「過去に戻って、なんとか楓が転校しないようにしたかった。そうしたら――そうしたら、楓は今でも私の隣にいて――」

「楓ちゃんは今でも睦月さんの友だちだよ」


 私は言っていた。通う学校は別々になってしまったけど、でも楓ちゃんは今でも睦月さんのことを大事な友人だと思ってるよ。それは近くで見ていて、すごくよくわかる。


 でも――。私は、睦月さんが小学校で一人ぼっちだったことを思い出した。睦月さんにとっては、楓ちゃんが転校していったことは相当なショックだったのだろう。でも、睦月さんは今は学校で一人ぼっちじゃないじゃない。学年は違うけれど、南雲さんがいるし。


 ……でも。そういうことじゃないんだろうな、というのもなんとなくわかる。南雲さんは楓ちゃんの代わりじゃない。代わりだと思うことは、南雲さんにも楓ちゃんにも失礼だ。

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