第3話 途中高速道路を走行して参りますので、シートベルトの着用をお願い致します。



僕は慌てて目元を拭い通路側に視線を向けると、バスに滑り込んできた女の子が中腰の姿勢で声をひそめて話しかけてきていた。


さっきダメ出しをした花嫁の顔にドキリとするが、そんなことがわかるはずもなく彼女はちょっと困ったような笑顔をしている。


「そう、ですけど」


「やっぱり! バスに乗ってきた時からそうかなぁと思ってたんです」


彼女はニコニコと愛想を振りまきながら寄ってきて隣の席に座ろうとする。しかしとうの僕にはまるで覚えがなく、知らない人が詰めてくる距離に怯む。


そのしかめ面を察したのか、彼女は慌てて「覚えてないですよね、いいんです」とパタパタ手を振った。


「由利 美波です。何回かお会いしてるんですけど、大学とかで」


ゆり、みなみ。頭の中で検索にかけるがヒットしない。そもそも大学でフルネームを覚えている友人など片手で数えられるほどしかいない。


入学当初は友達よりも手軽に遊んでくれる相手が欲しかったし、陽介とつるむようになってからは彼と仲の良い数人としか話した覚えがない。我ながら灰色の学生生活に頭が腐っていく。



「大学とかって、他のところでも会ったことあるの?」


「はい、えっと、ホテルで」



彼女は、由利さんは少しだけ言い辛そうに口をもごつかせて言った。その台詞に彼女にまつわる記憶がフラッシュバックする。



酔った勢いで、大学の近くのチャチなホテルに雪崩れ込んだ。月明かりのない真っ暗な部屋で、白く浮いたような肢体が眼下に広がっているのが不思議で仕方なく、いつも体を重ねる彼らにはこんな景色が見えているのかと妙な生々しさを感じていた。


肌の温みを楽しめば良いのか、嬌声に従うように動けば良いのか、実感と高揚のない行為が続いて、すっかり酔いが醒めたことを自覚する。夢の国を真似たような野暮ったい部屋の装飾に自分の愚かさを嘲笑われたような気がして、眠る彼女を置いて始発に合わせてホテルを出た。


色んなことが嫌になって自暴自棄になり、他人を使ってさらに自分を追い詰めた。何もかもが自分には似つかわしくない朝が重く背にのしかかってきて、足早に家に帰って眠った。


そうだ、確かにあのときの女の子は「ゆり」といった。だが恋愛の真似事のような場で聞いたためか、完全にファーストネームを名乗ったものだと思って忘れていた。俺も「はるき」と下の名前を告げ、そのあとは名前など必要もなかったからそれきり。


自分勝手に手を引いて口付けた女性の顔など覚えているはずもなかったが、右の目元の印象的な涙ボクロがろくでもない記憶を刺激する。


しかし頭の中の艶っぽいシルエットと、目の前の彼女がうまく繋がらない。顔のパーツひとつひとつは同じ人のそれなのに、まるで雰囲気が変わっている。


あの頃はもっと、支配欲をそそられるような儚さがあって夜がよく似合っていた。だから気まぐれに出会った彼女を誘ったのだ。


しかし今の由利さんは小柄で人懐っこい笑みを浮かべ、あのときのことなど水に流したように朗らかに話し始める。気がつくとすでに隣の席に座っていた。



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