第41話 深淵の紅眼
三方向から伸びる手が牌を掻きわけ、馴らし、各々の山牌を構築していく。
削る、尖らす、鋭く、集中……集中・集中・集中!
指の先まで研ぎ澄まして、わたしは136枚の牌を感じて、触って、捉えていく。
感覚を鋭く尖らせ、目と手以外の五感を閉じて削っていく。
――積み込み。
山牌に自分に有利な牌を仕込んでいく、イカサマ。思えばこれを成功させてから、何かが変わってしまった気がする。『少ない』人生を送ってきたわたしが、あの老夫婦から奪ったことが、ぜんぶのはじまりのように思えて……。
『 人が最も力を発揮するのは、【欲】を抱いた時だからね 』
沼田先生の言葉が、甦ってくる。
わたしだけに向けられた、あの言葉が流れてくる。
『部活で成功しなかったのは、単に君が現状に満たされ、満足してたからさ』
『満ち足りた奴に、【欲】が生まれるかよ』
いまのわたしは、どうだろうか。
満ち足りてるだろうか? 現状に満足してるだろうか――――――――――そんなわけ、
「あるもんか…………っ‼」
とぷん、と。
牌に触れようとした指先が、牌に潜り込んだ。
瞬間、心が静謐に満ちる。
指先から不思議な感覚が流れ込んできて、時間の流れが泡となって耳元を通り過ぎて行った。
潜って、もぐって、
他の人がどんな風に手を動かして、どんな風に牌を
あ、ナルちゃん、今、索子の7取った。
だったらと……わたしはナルちゃんの山牌にそっと索子の6を送り込む。
ナルちゃんはもう積み込みを使わない。それが分かっていたから出来たことではあるけれど――――なんだろう、前よりも、深くなってる気がする……っ!
老夫婦に積み込みを仕掛けた時より、さらに深く潜り込んで、わたしはまるで深海にダイビングしたようだった。
圧し掛かる水圧で周りの動きがスローモーションに見える。
ナルちゃんの手がゆったりと三元牌の『
そういえば、おじいさんとおばあさんに積み込みをした時も、こうやってメンちゃんが何の牌を取ったか、感じ取っていた気がした。
………………ごめんなさい。
声も届かない、暗い海の底から、わたしは老夫婦に身勝手に謝る。
友達を助けたいんです。
『少ない』わたしが出会うことができた――――宝物なんです。
だから……ごめんなさい。
もう一度だけ―――使わせてください!
わたしは永田町ルールでドラになった、三元牌の『發』に手を伸ばした。
これで『中』も合わせたら、三元牌だけで6翻=跳満が確定する!
指先が『發』をつまむ。
バチン
深淵から伸びてきた綺麗な指先が、わたしの指先を叩き、『發』を素早く奪っていった。
……え?
わたしは深海の、更に底を、覗き込む。
光も音も届かない、深淵の奥底で――メリッサの赤い瞳が楽しそうに歪んでいた。
「はい、それじゃあ取っていって~」
「わざわざ言わなくても良いわよ。ねぇ、ラブさ……ラブさん?」
ハッと、沈んでいた意識が一気に海面に引き上げられる。
気づいたら、山牌はもう積まれ終わっていて、配牌の段階になっていた。
「ご、ごめん」と謝りながら、わたしは山牌から牌を4枚取っていく。
さっきのは一体……いや。首を振って不安を払い、手牌を起こす。
積み込みは成功し、狙い通りの手牌になっていた。手元に落としていた視線を上げると、ナルちゃんが自分の髪をくるくる弄ってた。
あれやってるってことは、ナルちゃんも良い手なんだな……
麻雀同好会で沼田先生に教わった『積み込み』がある限り、負けることは無い。
あの電撃の痛みだって、負けなければ味わうことはな。
「ちょっと、早く捨てなさい。でないと始まらないでしょ」
そう言ったのはナルちゃんだった。
見やると、メリッサはまだ牌を河に捨てていない。
親が最初に捨てなければ、麻雀はスタートしない。
だからナルちゃんは苛立ち紛れに卓を指でトントン叩く。
なんだろう。
「フヒッ」
胸がざわつく。
「ヒャハッ」
深淵に浮かび上がる、あの赤い瞳が、脳裏にチラつく。
「キャッハハハハッ‼
いやァ、すまないねェ。でもしょうがなじゃない?
だって捨てる牌が無いんだから」
振り払ったはずの不安が戻ってきて、濃霧のようにまとわりついてくる。
霞む視界の中で、メリッサが手牌を
「 天和。4万8千点 」
天和。
牌が配られた瞬間に
ゲームで例えたら、魔王とのバトルが始まった途端に魔王が倒されてるような、そんな反則級の役を――――わたし達は目にしたことがある。
麻雀同好会に入ったばかりの時、沼田先生がわたしに見せてくれた。
たった一人の手による積み込みで『天の恵み』を毟り取る先生の手捌きと、メリッサの手捌きがぴったりと重なる。
「あーそうだァ。君達のことを調べたら、懐かしい名前を見たんだよ。
ワタシが手塩にかけて躾けた、可愛い可愛い
ええっと、たしかワタシが奴に買い与えてやった戸籍の名は――――沼田和義」
コポッ、と口から水泡がこぼれる。
わたしは今更ながらに海底から流れ込んでくる水の冷たさに、ブルブルと全身が震え上がる。
深海に住まう
「君達の先生に麻雀を教えたのは、ワタシだ。
だから、君達にはとっても親近感が湧くんだよ。だから、手に入れたいんだよ」
メリッサが、麻雀で挑んできた理由を、やっと理解する。
自分が絶対に勝てるからだ。
わたし達が絶対に負けると思ってるから…………。
真っ黒な深淵の海底から、紅い双眸がわたしに敗色を塗り付けてくる。
暗くなった視界の向こうで、メリッサが腕輪に目を落として、つぶやいた。
「そろそろだな」
「――――へ?」
腕輪がギュアアアアアアッッと、激しく回転し始めた瞬間。
全身の毛穴に針が突き刺さるような激痛が、絶望で曇った眼を無理矢理真っ白に染め上げた。
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