第38話 なけなしの仁義を背負って

 バットや鈍器が脳裏によぎった。

 でも轟音の正体は――――人の拳が壁を打ちつけた音だった。


「避けんじゃねぇよ」


 頭上から降って来た、野太い声。

 見上げると、大柄な男が耳からピアスを垂らして、わたしを見下ろしていた。


 視界が『黒』で埋め尽くされる。

 それが耳ピアスの人の手のひらだと気づいた時には、わたしは地面を転がっていた。


「ラブさん、大丈夫⁉」


 わたしは目を白黒させる。

 てっきり叩かれたのかと思ったけど、どこも痛くない。ナルちゃんが引っ張ってくれたんだ。


 それを知ったのは、ナルちゃんが耳ピアスの正体を当てた時だった。


「あなた、春木拓斗の仲間ね。いいの⁉ 

 こっちはあなた達を警察に引き渡すことだって」

「構やしねぇよ!」


 また背後から、低い声がした。

 振り返ると、メッシュの人が木製バットを肩に担いで、立ち塞がっていた。


 あ、と思い出す。

 この人達、メンちゃんを連れ去ろうとした奴らだ。


 わたしは背後の耳ピアスと前方のメッシュを交互に見やる。挟まれた! 

 よりにもよって、抜け道……路地裏を通っていたところで。


 メッシュの人はバットの先端を引きずりながら、近づいてくる。

 ガリガリガリと、バットが路面と擦れる音が、メッシュの人の威圧感を増させる。


「そん時は春木の雑魚に全部なすりつけてやっから。お前らが把握してんのは春木の個人情報だけだろ? 俺らの名前だって知らねぇはずだ」


 ナルちゃんがぐっと言い淀む。

 あのイケメンはプラちゃんが先に倒してくれてたから、学生証を奪えただけで、確かにわたし達はこの二人の情報を何も把握していない。


 わたしは深く息を吸って、またあのハッタリを口に出した。


「良いの⁉ わたしのお父さんに、鬼龍会の猪狩伎天哉にボコボコにされ」

「出来るなら呼んでみろや‼ 本当に娘ならなぁ‼」


 耳ピアスの人の怒号にビクッと肩が竦んだ。

 なんでバレたの⁉ 

 するとメッシュの人がブンブンと素振りしながら、得意げに語る。


「その筋の人から聞いたんだよ、猪狩伎は独り身だってな。ったく、つまんねぇハッタリかましやがって」

「ハッタリじゃないわよ。あの写真は猪狩伎さんと私達が親しい仲だってしょう」




 メッシュの人がバットを振りかぶった。




 うなじに痺れが走る。

 お腹の真ん中から悪寒が駆け上がって、考えるより先に体が動く。



 一瞬で危険を感じ取ったわたしはナルちゃんの腕を掴んで、後ろに引っ張った。

 横薙ぎに振るわれたバットが、、壁にぶつかった。


「あ……」とか細い声がこぼれて、ナルちゃんが膝から崩れ落ちた。


 へたり込んだナルちゃんを、メッシュの人が冷たい怒りを湛えた目で見下ろしていた。


「やめて、よ」


 わたしの大切な人を、これ以上傷つけないで。

 そんな想いが、掠れ出た声は一切届かず。


「もう喋るな」


 それだけ呟いて、メッシュの人がバットを振り上げた。


 震えて動けないナルちゃんに覆いかぶさった。

 ギュッと目蓋をきつく閉じて、これからやってくる痛みと衝撃に体を強張らせる。


 銃声みたいだけど、肉を打ち据えたような生々しい響きの伴った音が、炸裂した。





 ……あれ?


 目蓋を開ける。

 音がしたのに、殴られた衝撃も激痛もやってこない。


 おそるおそる顔を上げると、「あっ」とドスの利いた明るい声が掛けられた。


「やっぱり実莉と愛理ちゃんじゃねぇか」


 左目の刀傷が、浮かべた笑みで少し歪んだ。


 右手に茶色い紙袋を抱えた猪狩伎さんの左手には、メッシュの人が振り下ろしたバットがしっかり握り締められていて、完全に衝撃を腕一本で受け止めていた。


「お、おまえ、猪狩伎」

「俺みたいなモンに言われるのは癪かもしれねぇがよぉ、駄目だよ? 女の子だけでこんな」


 口をいったん閉じた猪狩伎さんがグイッと、バットを引き寄せる。


 バットを握りしめたままだったメッシュの人が前につんのめって――――メキャッ! と顔面に猪狩伎さんの頭突きを叩き込まれた。


「ゴミ溜めみたいな所に来ちゃ」


 鼻がへしゃげて、歯が数本飛び抜けたメッシュの人に前蹴りが放たれた。お布団を殴ったような音と共に、メッシュの人は文字通り蹴り飛ばされた。


「ここにはあいつとか後ろのデブみたいに、人の形をしたゴミがうろついてんだから」


 そう言い終えて、掲げた足を降ろす猪狩伎さん。

 ハッとして振り返ると、耳ピアスの人は音もなく倒れ伏していた。


「それにしても随分走り回ったみたいだな。汗で色々透けてて、オジサン目のやり場に困るわ。何かあったのか?」


 尋ねられた。


 止まりなさいとか逃げるなって命令じゃない。

 事情を、わたし達の話を聞こうとしている。

 たったそれだけの問いかけが、すごく優しい言葉に聞こえた。


 さっきまで胸の奥から湧き出ていたドロドロの感情が、透き通った安堵に染まっていく。気づけば、わたしは猪狩伎さんに抱き着いていた。


「あ、うあ……わぁぁあああああん‼」

「おーおー、どうしたぁ? わんわん泣いちゃって。まぁ、こんなオジサンの胸でも良いなら、いくらでも貸すけどよぉ。……実莉、お前はどうだ?」


「……なにが」

「いや、一人でぽろぽろ泣いてるからよぉ」

「ないてない」

「無理すんなって」

「ないてない!」


 わたしが猪狩伎さんの胸に泣き顔を押しつけている間、ナルちゃんはずっとうるうるした声で自分が泣いてることを否定し続けていた。

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