第35話 マフィアの暇つぶし

「フヒヒ、怯えてる気配がこちら側まで伝わってきて、ワタシ傷ついちゃうなァ。怖いオジサンならもういないのにィ」


 ……しよ。

 どうしよう、どうしよう、どうしよう⁉


 このドア一枚隔てた向こうに、あの女の人がいる。

 わたし達の方を向いて、喋っている!


 刻み込まれて新しい、心が軋むような恐怖が色濃く蘇ってきた。

 ナルちゃんがキッと眉を吊り上げた。そして背中でドアを押して、白髪の女の人を挟もうと動き出した刹那。


「あ、抵抗とかしなくて良いよォ。君達をどうこうする気は無いんだァ……今はまだ、ね」


 ナルちゃんの動きが止まる、いや止めさせられた。

 対峙すらしてないのに、わたし達はもう完璧に彼女に制されている……支配されている。


 沼田先生ひとでなしに置いて行かれた時も、山を登った時も、ヤクザ相手に賭け麻雀を仕掛けた時も、いつだって気丈だったナルちゃんが慄いている。


「聞いていたから分かってると思うけど、逃げたあの二人に『生かす価値』を与えたのはワタシだ。でも、その価値はいつまでも続かない。

 ――――今晩の0時だ。それを過ぎれば、彼女達はこちらで処理させてもらうよ? 分かったかな?」


 処理。

 その言葉だけで、全て分かる、理解させられる。

 この人は、わたし達と住んでいる世界が違う。この人は、わたし達と同じ価値観を持っていない。


 違う生き物だって思いたいのに、それでも姿形がわたし達と同じ『人』の形をしているのが……意味が、分からなかった。


「な、で」

「んゥ?」


 声が、掠れる。

 喉から、言葉が出てこない。


「んな……でっ、な……ん~~~~っ!」


 目頭が熱くなって、雫がぽろぽろこぼれる。

 わたしじゃ、疑問をぶつけることすら出来ない。

 恐怖を一瞬だけ上回る悔しさが込み上がりかけたけど、白髪の女の人は声を弾ませて笑った。


「フヒッ、ハハッ、キャッハハハハ‼ 

 可愛いィ~~~! 可愛い声で啼くねェ仔猫キティ! 君が聞きたいのはアレだろう? どうしてワタシが自分達を見逃すのか? なぜわざわざあの二人の命に時間制限タイムリミットを設けたか? だろう?」


 爪が手のひらに食い込んでいく。

 喉の奥から込み上がってくる嗚咽を噛み締めながら、次の言葉に耳を傾けた。

 楽し気に嗤い終えてから、白髪の女の人はさらりと理由を答えた。


         「 ひまだったからだよ 」


「……へ」

「いやねェ? そもそもワタシ日本には来たくなかったんだよォ。

 苦い思い出があるからねェ。それだけでも嫌々なのに、取引相手があんな低レベルで……君達も経験無いかィ? 

 つまらない彼氏の話を聞き流すためにゲームアプリを入れてみるとか、つまらない仕事から抜け出してトイレで漫画アプリを開くような経験をさァ」


 指から力が抜けて、握っていられなくなる。

 わなわな、と開いた唇が戦慄く。

 白髪の女は、今にもその場で回りだしそうな調子で、宣告する。


「要は観察ゲームさ。

 ワタシは、逃げた後の君達がどんな行動を取るのか見てみたい。さて、そろそろゲームを開始するとしよう。ヒントは窓の外だ。それじゃあ……開局」


 手を叩く音が、廊下にこだました。

 白髪の女は高笑いしながら、遠ざかっていく。


 気配が完全に消えるのを待ってから――――わたし達はドアの裏から飛び出した。


 笑っている膝を叩く。宿泊部屋を突っ切る。

 窓を開けると、ベランダにこの廃ビルとは不釣り合いな、真新しい避難袋が設置されていた。震える手で避難袋のロックを開けて、重たい中身を二人でベランダの外へ放って落とす。


 長い救助袋が、シュルルルと音を立てて落ちていき、ピンと張った。

 袋の中に飛び込めるよう、入り口の金具を起こして……おこ、して。


「んっ~~~、くっ!」


 両手が震える。

 力を込められない。


「ラブさん、早く金具を起こして! でないと」

「さっきまで、普通に話してたよね?」


 金具を起こそうとした、ナルちゃんの手が止まる。

 わたしのバカ、何言おうとしてるの、口じゃなくて手を動かしてよ。

 でも、でも体が想いを裏切ってる。手に力を込めず、口が嘘みたいに回る。


「ナルちゃんは知らないかもしれないけどね、下で二人を待ってた時、メンちゃんと今回の旅行のこと話してたんだよ。今日は楽しかったねって」

「金具を起こしてください」


「プラちゃんもさ、楽しそうにこのビルの写真撮ってさ、わたしは恐がりだから、ぜんぜん楽しさ分かんなくて、それで……『早く撮ってきて』って言っちゃって」

「金具を起こさないと、救助袋が使えないの」


 金具から手を離して、わたしはぐしゃぐしゃの顔を手で覆った。

 わたしの言葉を聞いて、ホールへ走っていくプラちゃんの背中が思い浮かんだ。


「そんなっつもりじゃ、なかっったのぉ! 

 わたしっ……あんな言葉が最後だなんて」


 ドン、と肩を突き飛ばされた。


 ベランダの壁にぶつかる。

 背中に痛みを覚えた時に、ガコンと入口金具が起こされた音が聞こえて……ナルちゃんがわたしの前に立っていた。


「な、ナルちゃ」

「逃げるの」


「……え?」

「今は、とにかく逃げるの!」


 ナルちゃんがダンッと踏み鳴らして、わたしは肩が跳ねた。

 ナルちゃんは救助袋を叩きながら、わたしに濡れた怒声を浴びせる。


「二人を置いて逃げるの! 

 私達だけでも助かるために逃げるの! そのために金具を起こしたの! 

 だって……今の私達には、それしかできないじゃない」


 そう叫んでるナルちゃんの姿が、見たことないくらい小さくなっていた。

 縮こませた肩を抱いて、うつむいて、ぽたぽたとベランダに沁みをつくる。


「おねがいだから、いうこときいてよぉぉ。私だって、もう……どうすればいいのか分からないんだよぉ」


 弱々しくて、悲しくて、胸が締めつけられる声だった。

 ずっと、ずっとずっと我慢して押し込めてたはずの弱音を、ナルちゃんの弱音を、わたしが吐き出させてしまった。


 ナルちゃんだって辛いのに、限界だったのに。

 なのに、わたしは、わたしだけ弱音を吐いて……。


「―――――ごめん」


 うずくまるナルちゃんの横を通り過ぎて、わたしは足場を前に倒して、小さな脚立を登る。大きく口を広げた救助袋の中に、体を滑り込ませて、わたしは廃ビルから逃げ落ちた

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