第21話 無欲で全力だった、あの頃へ

 振り返るのは、自分が一番、純粋だった頃。

 『勝ちたい』という欲に目覚める前の頃。


 リフォームをする前の、まだ縁側があった頃の我が家で。


『おぉ?』

 祖父は私の手牌を見るなり、そんな素っ頓狂な声を上げたのだ。


『実莉、お前さっきもその手で和了あがってなかったか?』

 迂闊な捨て牌をしようものなら頭を叩かれ、満貫以上で和了あがれば胴上げする。全ての言動が激しい祖父が、その時だけは年相応の落ち着きを持った声音を発していた。


『うん。だってこの牌がよくくるせいで、ぜんぜんタンピンで上がれないんだもん』

 小さい頃の私はそう言って、眉間にしわを寄せた。


 タンピンとは、2~8の数牌の順子で構成される、麻雀で一番出しやすい役だ。

 確率的にも効率的にも狙いやすい役。なのに、私はこの役を中々完成させることができなかった。


 なぜなら、捨てても捨てても、1と9の数牌を山牌からツモってしまうからだった。

 それを伝えると、祖父は珍しく孫娘の頭を優しく撫でて、こう言ったのだ。


『じゃあ、お前は老頭牌ロウトウハイに愛されてるのかもな』

『ろー、とぉー? どういう意味?』


 上手く発音できないまま、小さい私は首を傾げた。

 すると祖父はニヤリと口の端を持ち上げる。


『麻雀で最も揃え辛く、滅多に姿を見せないからこそ――揃った時、最も美しい役になる牌だ。実莉、お前の麻雀は』


 その先の言葉を、私はさっきまで忘れてしまっていた。


             *


 卓に戻ると、倦怠感から狐目になっていた猪狩伎が、僅かに目を見開いた。


「へぇ、てっきり逃げたかと思ったわ」

「……逃げる訳ないじゃない」


 うそ。本当は、プラさんの言う通りに逃げたかった。

 敗北を確信するなんてまっぴらごめんだし、あんな惨めな想いを好き好んで味わいたくない。


 そんな私の本心なんて、この男ならとっくに見破ってるだろう。

 だから。


「だってもったいないもの」


 もういーや、勝たなくて。


 不安で貧乏ゆすりをしていた心臓が、喜びに踊り跳ねている。

 それは予感。家族みんなでキャンプに出掛ける日の前日のような、猛暑の中で飲むコーラのような、クリスマスの朝にプレゼントを探しに行くような。


 楽しいことが始まる、予感。


「さぁ、楽しみましょう」


 興奮冷めやらぬ内に、卓に着く。

 同卓のおじいさんが指摘してくれるまで、私は自分が笑っていることに気付いていなかった。


 南場1局。

 『親』でトンである猪狩伎の打牌(牌を捨てること)から、ゲームが始まる。


 手牌を起こした途端、私は苦笑する。見事にバラバラの、酷い配牌だ。

 数萬子の5・8だったり、索子の4・6だったりと、両面待ちなど到底狙えない組み合わせばかり。唯一の救いは『南』が二枚揃って、雀頭が完成していることね。


 まぁ、関係ないけれど。

 私は間髪入れずに『南』を捨てた。

 二巡目も同様で、さっさと二枚目の『南』も捨てる。


「えぇ⁉ それ捨てちゃうの⁉」

「そのままでも雀頭になるし、もう一枚来れば場風になるのに」


 河に並ぶ二枚の『南』を見て、同卓のおじいさん達が不可解な捨て牌に反応した。

 場風とは、『東南西北』の風牌を刻子にする役だ。扱いは三元牌を刻子にする役牌と同じで、3枚集めただけで1千点を貰える、手軽かつお得な役だ。


 おじいさん達が言ったように、序盤で崩して捨てるにはもったいない牌だった。


「良いのよ、これで」


 私はくるくると、指に髪を巻きつける。

 対面の猪狩伎が訝しむように、私の河を睨む。


 セオリーを無視した打牌(牌を捨てること)に、猪狩伎含めた三人の目に警戒が宿る。字牌無しで成立する役は清一色チンイツ純全帯幺九ジュンチャンなど、高い得点を得られる役が多い。


 おじいさん達の点棒の推移はデカデカピンで扱わないけれど、私と猪狩伎の高額レートの賭博の行方がどうなるか、気になっているらしい。


 東場の時よりも強い好奇の視線に晒されながら、黙々と牌を捨てていく。6巡目に差し掛かってきたところで、局面が変化した。


「リーチ」と、猪狩伎が宣言した直後に、

「ワシもリーチ」と、南家ナンけのおじいさんも追っかけリーチをかけてきたのだ。


 雀卓に二本の点棒が置かれた状態で、私の手番がやってくる。


「あちゃ~、こりゃもう無理かなー」


 北家ペイけのおじいさんはどうやらもう勝負を降りるようだった。

 ここからは自分が和了あがるよりも相手にロンをされないように、本来なら慎重に牌を捨てていかなければいけない。


 けれど、そんなのは私には関係ない。


 私は指をしならせて、萬子の4を河に捨てた。


 あまり大きな音を立てたつもりはなかったのだけれど、ちょうど沈黙が降りてきた所だったからやけに牌音が響いてしまった。


 まるで、誰もいない大理石の宮殿で物を落とした時のような、澄んだ音。


 猪狩伎の表情が固まり、おじいさん達も「おおっ⁉」とどよめく。


「何やってんの、ナルちゃん⁉」

 すると、惨敗を喫した東場でも声を上げなかったプラさんが叫んだ。私はため息をついた後、「静かにしなさい」となだめる。


「いや、あんな危険牌ぶち込んで静かにできるかぁ!」


 麻雀の牌は、どんな牌でも一種類につき4枚。それでも比較的手に入りやすい牌というのは存在する。それが『真ん中』と呼ばれる4・5・6の数牌だ。


 手に入りやすいとは、つまりその牌を最後の一枚にすれば和了りやすくなることを示唆する。更にはリーチが二つ掛かり、どちらが和了っても不自然じゃない。


そんな状況下で『真ん中』を打牌するのは、あのちゃらんぽらんなプラさんでも避けるほどの危険なプレーだったのだ。


「でも、通ったから良いじゃない」


 にやりと口の端が持ち上げる私に、プラさんは唖然とするが……ラブさんだけは口元を隠して微笑んでいた。雀卓に向き直ると、猪狩伎がペン回しのように牌を回して、こちらを睨み据えていた。


「さぁ、続けるわよ」


 索子の5、筒子の6、萬子の4。

 躊躇なく危険牌を打牌し、追いかけていく。そして10巡目を越えた時――――手は揃った。


「リーチ」

 宣言する。

 

 場には三本の点棒が並び、山牌も残りわずかだ。普通ならリーチなど掛けない。その証拠にプラさんは卒倒しかけている。


 それもそのはず。もう1千点棒は残すところ1本のみ。

 リーチを掛けれるのも、後1回だけ。いや、それよりも先に持ち点が0になり、ハコテンになる可能性の方が高い。


 そうなれば……飛ぶのは持ち点だけじゃなくなるかもしれない。


「あら? 私の手番は終了してますよ? 打牌、しないのですか?」


 ――――ガァンッ‼ と、回されていた牌が爆音を鳴らす。

 暴力的な振動が肌をビリビリと痺れさせた。


「さっきっからよぉ……」と怒気を滲ませながら、俯いていた猪狩伎が|睨《ね)め上げる。


「自棄起こすくらいなら帰れ、小娘。つまんねぇ打ち方してんじゃねぇぞ」

 地獄の底から轟くような、ドスの利いた声で赫怒する。

 真っ赤な怒りの丈が額から噴き出し、鬼かと見紛う程の圧をぶつけられる。


 打ち合ってみて分かった。猪狩伎は、この男は祖父と同類の――――雀鬼だ。

 136枚の牌を把握する技量イカサマなど、ただのおまけ。


 予測不能な『運の流れ』に身を任せつつも、負けを最小限に抑える冷静な頭脳と、ここぞという場面で流れを力尽くで手繰り寄せる精神力。


 想像を絶する強さと苛烈な麻雀愛を有する、怖い怖い鬼だ。まともに向き合って、戦っても勝ち目なんてある筈ない。


 だから――――見ないことにした。


「怒らせたのならごめんなさいね」


 筒子の4を捨てる。


 不純物を捨てて、捨てて、捨てて。

 あの役を追い求める。

 おじいちゃんに綺麗だって褒められた、あの役を。

 私はただ、私の好きな役を出そうとしてるだけだから。


 猪狩伎の眼光と衝突する。

 怯みそうな心を奮え立たせ、揺らぎそうな度胸を無理矢理据わらせる。

 怖い。

 でも、それ以上に――――もし、あの役で和了あがれたら、絶対嬉しい!


 そんな確信が、私の中の弱気を掻き消してくれた。

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