9-1
「――ごめん、お待たせ」
ドノヴァンの声で我に返ると、デイがこちらに向かって頭をさげ、そのまま王宮に入っていくのが見えた。
「あ、うん……ね、デイ大丈夫だった?」
「ん? 大丈夫って?」
「……ううん、なんでもない」
夢だったのかな、と紗月は頭の片隅でぼんやり思った。今見たものも聞いたことも――デイはなぜあんなに気丈にふるまえるのだろう。
「でもよかった、ちゃんと戻ってきてくれて。さっきは遅いから紗月も一緒に行っちゃったんじゃないかと思ったよ」
「……ごめんね。何話してたの?」
「紗月、今日はちょっと帰るのが遅くなるかもって。夕食もいらないって言っといた」
ドノヴァンは広場のざわめきを振り返り、少し間をおいてからこちらに向き直った。
「よし! もう始まるよ、行こ。ほら、笑って」
ふわりと金属の香りが漂い、紗月は頬をつままれたまま目をとじて深呼吸をした。今するべきことはひとつ。ドノヴァンを見上げ、思いきり笑った。
フィーレ女王とフィール王がアトラス祭の開始を宣言し、お祭りは華やかなファンファーレとともに始まった。
屋台が開店すると中庭はいっそうにぎやかになった。食べ物の屋台以外にも射的や小さなボーリングのようなゲームの屋台もあり、ところどころで大道芸人や手品師がショーをやっていたりもする。外の舗道や商店街の店先にも屋台が出ているらしく、客だけでなく店の
手をつないで歩き、おいしそうなものを買って分けあい、倒したピンの数を競って笑い――明日も変わらず一緒にいられるまわりの恋人たちと同じように一日をすごし、空が夕焼けに染まる頃、二人は噴水のそばの芝生に腰をおろした。そのあたりには屋台が出ておらず、敷物を広げて寝転がっている人や座って話をしている人々がいる。
「ああ、食べたなあ。ちょっと休憩」
ドノヴァンが大きく伸びをし、ひっくり返って目をとじた。やはり窮屈だったのか、ネクタイはいつのまにかとっている。ボタンをはずしたシャツの襟元から鎖骨が見えた。
ふいに震えるほどの衝動に襲われ、気づくと紗月は「ドノヴァン」と呼びかけていた。
「ね、鎖骨さわってもいい?」
「んー? ……えっ?」とドノヴァンが体を半分起こした。
「鎖骨、さわってもいい?」
「……うん」
ドノヴァンは後ろに手をついた姿勢のままじっとしている。
震える指でシャツをかきわけ、浮きあがっている鎖骨とそのまわりのくぼみをそっとなでる。そこはどきりとするほど温かく、すぐに指先にじんわりと熱が広がってきた。なめらかな素肌、その下で呼吸とともにかすかに上下する硬い骨――その動きが急に早くなり、紗月はとっさに指を離した。指先に伝わっていたのはこれ以上早くは打てないほど激しくなった自分の心臓の鼓動だった。
ドノヴァンが体を起こした。ありがと、という紗月のかすれ声をすくいあげるように大きな手のひらが頭の後ろにふれ、引きよせられ、唇が重なる。
「紗月、今日さ」
ささやき声と温かい息が耳にかかり――
「紗月!」
突然大きな声が響き、頭の中に立ちこめていた霧が吹き飛んだ。はっと我に返ると同時に「もう! なんでお店に来てくれなかったの?」と目の前にルンゲが飛びだしてきた。
「あ、ご、ごめんね。さっき見たときすごく混んでたから、もう少しすいてからにしようと思ってて」
あわてて座り直したとたん、頭から爪先まで燃えるように熱くなった。ドノヴァンに見られないよう前髪をひっぱって顔を隠す、一体何をしているのだろう――「はい、これあげる」とルンゲが白い紙包みを紗月に押しつけ、甘えるように体を寄せて芝生に寝転がる。「よう。あー疲れた!」とドネルがすぐそばにどすんと腰をおろし、そのままあおむけにひっくり返った。
「あ、ドネル……え、もしかしてお店終わっちゃった? ごめん、行けなくて」
「いいよ、すげえ混んでたもんな。おまえも疲れただろ、って寝るのかよ」
ドネルが驚いたように起きあがった。ようやく息が整い、のぞきこんでみると、ルンゲは紗月の太ももを枕に早くもすう、すう、と寝息をたてていた。
「紗月、ルンゲのこといろいろありがとな」
着ていたシャツを脱いでルンゲにかけながらドネルが目を上げた。
「俺が智偉と一緒にすごせたのは紗月のおかげだよ。本当にありがとう」
「あのさ、俺もけっこう一緒に帰ったんだけど」とドノヴァンが横から顔を出した。
「おまえは紗月といたかっただけだろ」
「あはは、なんだ、ばれてたか。じゃこれからはルンゲと一緒に帰っちゃだめってこと?」
「……別に」
こいつがそうしたいなら俺には止める権利ねえし、とドネルはルンゲの寝顔を見下ろしてぼそぼそつぶやき、「それやるよ」と紗月が持っている紙包みをあごでしゃくった。
「それ、前に智偉もうまいって言ってくれたんだ」
鼻をすする音が聞こえ、紗月はドネルのほうを見ないようにして紙包みを開けた。挽き肉入りのトマトソースがたっぷり詰まったパイは冷めていてもとてもおいしかった。
紗月とドノヴァンが食べ終わってもルンゲは起きる気配がなかったが、ドネルは「いいよ、俺たちもまだこのへんにいるつもりだから」と大きなあくびをした。
「花火見たいって言ってたし、こいつずっと店にいたから全然見てまわってねえんだ。つきあってやらねえと」
「……そっか。優しいね、ドネル」
「え? なんだよ急に」とドネルが眼鏡を押しあげる。
「初めて会ったときいきなり怒られたから、ちょっと怖かったんだ。じつは」
「はは。あのときは悪かったな」
「でもあのあと謝ってくれたから、やっぱりいい人なのかもって思った」
「かもなのかよ」
「それにルンゲに結婚しろって言ったときは感動した。かっこよかったよ」
「その話は忘れろよ……ったくどいつもこいつも」
ルンゲは気持ちよさそうに眠っている。
「しかし起きねえな。俺こいつが起きるまで待つから、おまえらまだ見てまわるならいいぞ、行っても」とドネルはシャツをざっとたたんで紗月の脚のかわりにルンゲの頭と地面の間に押しこみ、眼鏡をはずして寝転がった。騒がしいしゃべり声のようなシャツの柄がルンゲの夢を妨げやしないかと思ったが、少し離れてから振り返るとドネルは親鳥のようにルンゲの背中に片手をかけ、一緒に眠っているようだった。
「そうだ、ドノヴァン、さっき何か言おうとしてなかった?」
「ん? ……ああ、うん」
ドノヴァンが珍しくはっきりしない口調でつぶやいた。
「あの、さ」
歩く速度がゆるやかになる。
「……さっき、びっくりした。鎖骨さわりたいって言われたとき。びっくりしたけど、嬉しかったし、ドキドキした」
ドノヴァンが立ち止まり、振り返った。
「朝、デイから鍵預かったんだ」
「え? 何の……」
とん、と視線がぶつかり、言葉を見失った。
目の前にいるのは見たことのない青年だった。見なれているはずの褐色の瞳はおどけても優しく微笑んでもおらず、まるで紗月をつかまえて閉じこめようとしているかのようにまっすぐこちらを見つめていた。
ゆっくりと口が開く。低い声が耳を通り――数秒後に言葉になった。
「……え」
「考えといて。とりあえず俺ももうちょっと休憩」
手が離れ、ドノヴァンはその場にごろりと寝転がって目をとじた。
――今夜、紗月ひとりだろ。俺、そっちに行ってもいい?
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