8-8
「おはよう。今日は雲がないな」
ドノヴァンが智偉に笑いかけた。その言葉通り、透きとおった青空には雲ひとつない。
「……あの、このあいだはごめん。見当違いのこと言って」
「え? ――ああ」と完璧な天体図のような顔がぱっとほころんだ。
「紗月のお見舞いに来たときのこと? いいよ、気にしてないから。でもどうして見当違いだって?」
「見てればわかるよ。本気なんだって」
「あはは、ほんと? まいったな。俺そんなにわかりやすいかな」
「紗月のこと、大事にしてくれてありがとう」
「いや」とふいに天体図に雲がかかった。
「大事になんかしてない。智偉だって本当はそう思うだろ。紗月はつらい思いをするのは自分だって、俺が紗月につらい思いをさせてるってちゃんとわかってる。それでも俺のわがままにつきあってくれてるんだ。ほんとに、優しいから」
「……違うよ」
ドノヴァンとの夕食の話をしていたときの紗月の笑顔。宇宙の外側よりドノヴァンと一緒にいたいんだとはっきり頷いた強い瞳。
「紗月は自分の意志でドニーといたんだよ。一緒にいられる間は思いっきり精一杯一緒にいるって言ってたんだ。だからドニーといて幸せだったはずだよ」
「……ありがとう。俺も今すごく幸せなんだ。紗月に会えて本当によかった」
そのつぶやきを噛みしめるように空に向かって微笑み、ドノヴァンは「俺たち、もっと早く友達になればよかったな」と照れくさそうに笑った。
少しして出てきた紗月の髪には赤いリボンが結ばれていた。似合ってるよ、とドノヴァンがまぶしそうに目を細め、ありがと、と紗月が恥ずかしそうに下を向く。二人は手をつないで坂道を下っていき、智偉はデイと並んでその場に佇み、幸せの完成形のようなその光景と朝の光に輝くアトラスを目に焼きつけるように見つめた。温かい風が吹く。青空とそのはるか彼方で揺れる水に包まれたこの星ですごした日々、その締めくくりにふさわしく
やがてデイが懐中時計を取りだした。
「智偉様、まもなく馬車がまいります」
王宮の中庭はすでに屋台の準備をする人々でごったがえしていた。期待と興奮が一秒ごとにふくらんでいくのが目に見えるようなそのざわめきの中、建物の扉から少し離れたところに紗月とドノヴァン、ドネル、ルンゲ、ルウマとソフィアが立っている。ドネルは伸びあがるようにしてあたりを見回していたが、いざ智偉が歩いていくと下を向き、よう、と小さく笑った。
二人の「母親」に存分に抱きしめられ、頭をなでまわされたあと、智偉はルンゲの前にしゃがんだ。
「ルンゲ、……」
初めて真正面から見るルンゲの目はきれいなこげ茶色だった。それを見たとたん、それまで言おうと思っていたこと、ありがとう、たくさん我慢させちゃってごめん、というような言葉が頭の中からすべて消えた。
「……ドネルをよろしくお願いします」
なんだそれ、こいつは俺の保護者じゃねえぞ、とふてくされた声が上からしたが、ルンゲは黙ったまま大きく頷いた。それで充分だった。
「ドネル、これ、よかったらもらってくれないかな」
「え、なんだ?」とドネルが驚いたように顔を上げた。
それは日記だった。サヤルルカ語で、智偉のアトラスでの日々を昨日の夕食から逆にたどっている。初めから記録をとっておけばよかったと思いながら書きはじめたのだが、ドネルの部屋で二人で話したこと、夕食を一緒に食べたこと、一日一日遡り、指を折って日付を数えながら書いていくうち思い出は次々に鮮明によみがえり、初めの日、目が覚めた瞬間にたどりついたときにはとっくに最後の今日が始まっていた。
「なんだよ……早く寝ろって言ったのに」
ページをめくっていたドネルの指が震えた――次の瞬間智偉はとっさに足をふんばり、勢いよく抱きついてきたドネルをかろうじて受けとめた。
「智偉、俺忘れねえから。じいさんになったら忘れるかもって言ったけど、絶対、一生、忘れねえからな」
「うん。ありがとう、ドネル。本当に楽しかった」と智偉も腕に力をこめた。
「――それ、あの日のこと、君の台詞も全部詳しく書いてあるから。覚悟しといてくれよ」
「台詞? ……って、それは忘れていいんだよ!」
「はは、残念。あれは忘れたくても忘れられないよ」
ドネルは肩をがっくり落としたが、すぐに「ありがとな、大事にするよ。じゃ、元気でな」と笑った。
紗月の隣でドノヴァンが一度だけ頷いた。
「ドニー、あと一日紗月をよろしく」
「まかせとけ」
「――智偉様、そろそろお時間です」
デイの静かな声に紗月の顔がぎゅっとゆがんだ。
「じゃあ、紗月。先に帰ってる」
『間』の前で深呼吸をする。差しだした左手を紗月が両手で強く握った。泣きそうな顔に、智偉は小さく頷く。
デイが深く頭をさげた。
「智偉様、お会いできて光栄でした」
「僕こそ、今まで本当にありがとう、デイ。……ごめんな、忘れないよって言えればいいんだけど」
ぴたりと動きがとまり――ややあってデイが体を起こした。
「では、智偉様、翻訳機を」
耳から翻訳機をはずし、うつむいたままのデイの手にのせる。
「……じゃ、行くよ」
『間』の扉を開ける。
名前を呼ばれた気がして智偉は振り向いた。
デイがサヤルルカ語で何か言った。翻訳機を通して聞いていた日本語よりデイの口から出てくるのにふさわしい、柔らかな優しい響きの音だった。
デイは涙を浮かべたままいつも通り微笑み、もう一度頭をさげた。
聞き返してはいけない、と思った。もう幕が下りる時間なのだ。
智偉は小さく手を振り、『間』に入った。
扉が閉まった。
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