8-2
「そうなの。よかったねえ!」
ルウマが笑顔でそう言ったとたん、智偉とドネルを包んでいた重苦しい空気がふっと消えた。
「そうだよな、智偉にとってはいいことなんだよな」
ドネルはつぶやき、しかしそのまま智偉を見ずに奥に入っていったが、しばらくして戻ってきたときにはだいぶ気をとり直した様子だった。いつも通り客の切れ間に話をしながら仕事をし、夕方帰り支度をしていたところへルウマが出てきた。
「ね、智偉くん、夕飯食べていったら?」
「えっ、やった! なあ、そうしろよ、智偉」
ドネルが声をはずませて腕をつかむ。力まかせにしぼった雑巾のように小さく固まっていた気持ちがほどけ、智偉はありがたく招待を受けることにした。
紗月とドノヴァンがそこらにいるんじゃねえか、というドネルの言葉を背中に、智偉もおそらくそうだろうと思いながら食料品店を出たのだが、バス停の近くのベンチに後ろ姿はひとつだけだった。薄暗い中ぽつんと見えた生成り色にどきりとし、歩みよると深くうつむいていた頭がびくりと動いた。
「紗月? なに、どうしたの? なんで一人でこんな時間まで」
「ごめん、なさい……私」
ぐしゃり、と薄氷が割れるように表情がゆがんだ。
ひどいこと言っちゃった、もう許してもらえない、私のこと一緒にいて楽しかったって思い出してほしかったのに、本当につらいのはドノヴァンのほうなのに――次々あふれだす紗月の涙を、智偉は横に突っ立ったまま呆然と見ていた。ドラマでも映画でもない、これは紗月にとっても現実だったのだ。紗月がこれまでどんなにぎりぎりのところでドノヴァンと一緒にいたのか、なぜ考えが及ばなかったのだろう。何と言えばいいのだ。目の前で泣いている紗月は軽々しく手を伸ばせないほど遠くにいる。そのとき道にさっと明かりが差し、バスが走ってくる音がした。
「……ドノヴァン、何時までギルリッソさんのところにいるの?」
バスがとまった。真っ赤になった紗月の目と鼻が明かりの中に浮かびあがる。
「行きなよ。行ったほうがいい」
「だ、だめ、ドノヴァンはもう私なんか」
「じゃこのまま終わってもいいの? そんなの絶対後悔するよ。好きなんだろ、思いっきり精一杯一緒にいるって――」
「紗月!」
大きな声が響いた。紗月がはっと腰を浮かせ、なんで、と信じられないものを見たかのように声を震わせる。振り向くより先に智偉はとっさにベンチから数歩離れた。
「宿泊所に行こうと思ったんだ。そうしたら紗月がいるのが見えたから。紗月こそなんで、まさかずっとここにいたの?」
ドノヴァンが大股で歩みよってきて手を伸ばす。こっちが正解だったんだな、と智偉は思った。王子様は必ずお姫様を迎えにくる。正しい役者は現れるべきときにちゃんと現れるものなのだ。
「ごめん。ドノヴァン、ごめんね。私、あんな、ごめんなさい」
「違う、紗月は何も悪くない。俺こそごめん。ほんとにごめん」
バスのドアが閉まり、明かりが動きだす。薄闇の中ひとつになった人影の足もとで白い花が二輪小さく揺れた。
紗月は必ず宿泊所まで送るとドノヴァンが固く頷き、つながっている二人の手も離れそうになかったので、智偉は食料品店に戻った。
台所ではルウマとドネルが夕食の準備の真っ最中だった。できるまで双子をお願い、と言われ奥の階段を上る。足音が兄でも母でもないと気づいたのか、開いていた正面のドアの中でおそろいの服を着た双子の一人が顔を上げた。
「やあ。入ってもいい?」
「うん。いいよ」
散乱しているおもちゃをよけて腰をおろすと、くせっ毛のファビアンがとことこ歩いてきて膝にちょこんと乗った。
「大きい兄ちゃん、遠くに行っちゃうの? さっきお兄ちゃんが泣いてたよ」
「えっ? ……ああ、お兄ちゃんってドネルのこと?」
「うん。淋しいって。ね」
「ね」とアドリアンがもう片方の膝に乗った。
「大きい兄ちゃんも淋しい?」
「……うん。僕も淋しいよ」
二人は顔を見合わせた。
「大丈夫だよ。一回友達になったらずっと友達だもん。ね」
「ね。会えなくても大丈夫だよね」
四つの大きな目に見上げられ、智偉は何とも言えない気持ちになった。今膝に乗っている小さな二人より少し大人である以上必ずしもそうではないことを知ってしまっているが、同時に、ここにあるものは、さっき薄闇の中で見たものはたしかにそうだとも強く思った。
『智偉、地球のこともっと教えてくれよ』
『からかってるわけじゃないよ』
「……うん。そうだよな。僕もそう思うよ」
両手で頭をなでると双子は再び顔を見合わせ、「ねー」と声をそろえた。
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