8-1
木曜日の授業中、先生に合図されて廊下に出ると智偉とデイがいた。智偉も今教室から出てきたらしく戸惑った顔をしている。
「授業中におじゃまして申し訳ございません。わかり次第ということでしたので、早いほうがいいかと思いまして」
デイがうつむいたまま息を吸いこんだ――
ドネルがなにかいっている
じぶんがへんじをしている
ドネルがはしってきょうしつをでていく
ルンゲがみぎてをつよくにぎる
ドアのそとにだれかがたたずんでいる せがたかい みじかいかみ おおきなめ、あかるい――茶色の
――瞬間、視界に色が戻り、遠のいていた音が戻り、感情が涙と同時に戻ってきた。
「来た来た、俺の大好きな美女二人。さ、帰ろ」
ドノヴァンは一度ふせた目をすぐに上げ、おどけたように両手を広げると、その手を紗月とルンゲの肩にまわして歩きだした。
「あたしのことは好きじゃないでしょ。ドニーが好きなのは紗月じゃない」
「え、なんで? 俺はルンゲのこと好きだよ」
「違うわよ、あたしが言ってるのは愛してるかどうかってこと」
ルンゲがじれったそうに足を踏み鳴らし、あっけにとられたように開いたドノヴァンの口から「あははは。そうか、そういうことか」と大きな笑い声があふれだした。「決まってるじゃない。ね」とルンゲが紗月を見上げる。
「そういう意味ならそうだな、ルンゲのことはたしかに好きだけど、それは友達の好きだなあ」
「そうでしょ。愛してるのは紗月でしょ」
「うん。そうだねえ」
紗月は強く目をとじた。それでも暗闇の中から二人の声が聞こえてくる。「でもなんでばれたの? 内緒にしてたつもりだったんだけどな」「見てればわかるわよ。ドニー、紗月といるときうきうきしてるもん。ずっと紗月のことばっかり見てるし」「あはは、ほんと? まいったな」耳をふさぎたい、でもルンゲの手を離すわけにいかない――「ちなみにルンゲが愛してるのは」「ドネルよ。もちろん」「だよねえ」聞くまでもないよね、と再び笑い声が聞こえた。
「でもさ、智偉も帰るんだって。そしたらまたドネルを一人占めできるようになるよ。……あれ、嬉しくないの?」
「……またドネルが泣いちゃうもん。ドネルが悲しむのはいや」
少し間があき、ふいにルンゲが立ち止まった。目を開けるとドノヴァンがルンゲの正面にしゃがんでいた。
「大丈夫、ドネルにはルンゲがいるだろ。それにルンゲにはドネルがいる。淋しくなっても、愛してる人がすぐそばにいるなら大丈夫だよ。だってルンゲとドネルは結婚するんだろ?」
頷くようにうつむきかけ、ルンゲが紗月を見上げた。
「でも、じゃあ紗月とドニーはどうするの?」
一瞬横顔がゆがんだ、しかしそれは紗月の睫毛にひっかかった涙のせいでそう見えただけだったのかもしれない。ドノヴァンはにっこり笑って立ちあがり、紗月の肩に手をまわした。
「お別れするときまでたくさん楽しいことして、精一杯一緒にいるよ。ね」
「いやあ、ルンゲにはかなわないな」
道を引き返しながらドノヴァンが小さく笑った。
「帰ることになったんだね」
のんびりと、優しく、大きな手が紗月の手を包む。
「いつ?」
「……智偉くんが土曜日の朝、私が日曜日の朝だって」
日曜、と手を握る力がわずかに強くなった。
「――よかったね。やっと家に帰れるね」
明るい声も手の温もりも昨日と同じなのに、昨日とはもう違う。わかっていた、でもそれが今日だなんて思っていなかった。また明日と手を振り、その言葉通りに明日が来る、そんな日々がまだ続くと思っていた――
「紗月」
静かだがきっぱりとした声が飛びこんできた。反射的に顔を上げると、ドノヴァンがまっすぐこちらを見下ろしていた。
「そんな顔するなよ。一緒にいられる間はそんな顔でいてほしくない。もったいないよ。あと二日間、思いっきり笑って一緒にいようよ」
初めて見る怒ったような顔、褐色の瞳の中に、涙でぐちゃぐちゃにゆがんだおぞましいほど醜い自分が映っている。
(――だって)
「ドノヴァンはいいよね」
ぐしゃり、と何かがつぶれる音が聞こえた。
「自由なんだから。忘れるのも忘れないのも自分の自由なんだから」
底に沈んでいた泥が舞いあがり、あっというまに全体をにごらせていく。これが本当のあんたでしょ、
「忘れないなんて調子のいいこと言ってても、どうせすぐ忘れるよ。それでほかの女の子たちとまた今まで通り楽しくすごすんでしょ」
「え、待って、どうしたのいきなり。今まで通りってなに?」
「ドノヴァンが自分で言ったんじゃん。女の子と出かけたことあるって、王宮の中庭に行ったとき」
言葉がざらざらした砂利のように、その中にひそむ鋭い破片をむきだしにしてドノヴァンに襲いかかっていく。うろたえている姿を見るのは痛快だった。ドノヴァンも傷つけばいい、いい気味だざまあみろ――「あれは……だって、それは紗月がここに来る前の話で」とドノヴァンがきまり悪そうに眉尻をかいた。
「わかってるよ。だからこれもそのうちの一回なんでしょ。こんな機会めったにないもんね。せっかくいつもと違うことが起きたんだもん、いろいろ試して遊んどかなきゃ損だよね」
「なんで、そんなわけないだろ! なんでそんなこと」
「だってそうじゃん! いつも変なことばっか言って、このあいだだって」
結婚しよう、なんて簡単に――馬鹿みたいだ。あんな寝言を真に受けて、宝物みたいにしまいこんで、こんなの結局――結局みんなただの夢にすぎないのに。
そうだ。夢なら、忘れてしまうのなら何をしても意味がない。願っても祈っても叶わないなら――
「ドノヴァンが覚えてても忘れても、どうせ私にはわからない。だから覚えてたかったら覚えてればいいし、忘れたって誰にも文句言われないよ。だって私忘れちゃうもん。忘れたくなくても忘れなきゃいけないし、もう二度と会えないのに、なのに笑ってろなんて、なんでそんな無駄なことしなきゃいけないの? 馬鹿みたい。自分だけ楽しい思い出にしたいからって、そんなのほんとにただのわがままじゃん。そんなのにつきあわされるなんてもう無理。やだ。私、もうやだ!」
真空のような沈黙が下りた。
ふと右手が自由になった。
「わかった」
はっと目を開けると、砂利道を歩いていく茶色い革靴のかかとが見えた。
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