7-6

 ふっと金属の香りが鼻をかすめ、目を開けるとすらりとした指ごしに褐色の瞳が柔らかくほどけた。

「おはよ。もう、だから一緒に寝ようって言ったのに」

「だっ、だから、そんなの」

「あはは、冗談だよ。ごめんね、ベッドとっちゃって。――あ、雨やんでる」

 窓の外は明るくなっていた。雲のすきまから青空がのぞいている。窓に歩みよったドノヴァンが「あ」と机の上の絵本を手にとった。

「これ、ルンゲが貸してくれたやつ? 懐かしいな、俺も持ってたよ。絵はこれじゃなかったけど」

 ページをめくる手がふととまった。

「きみがぼくを忘れても、ぼくはきみを忘れない……か。小さい頃はよくわかってなかったけど、これ、こういう話だったんだな」

 陽だまりの思い出のような声に、突き動かされるように紗月は立ちあがった。小さい頃、こんなふうに出会うことなど知らなかった子供の頃、ドノヴァンがこの絵本を読んでいたとき自分は地球で何をしていたのだろう――しかし勇気は先程のぶんが最後だったのか、伸ばした手は空を切り、白いTシャツの背中にとどく前に引っこんでしまった。

「……智偉くん、まにあったかな」

「そうだね、まにあったといいね」とドノヴァンが微笑んだ。


 温めなおしたお茶を飲みながら、「俺が柱時計つくれるようになったら、ここにもひとつ置かせてもらおうかな」とドノヴァンが食堂の中を見回した。

「でも時計はもうあるよ」

「あれは別のところで使えばいいよ。大きいほうが見やすいし、ここにはやっぱり柱時計を置きたいな。うん」

「あはは、じゃデイに相談だね。どうしてそんなに柱時計が好きなの?」

「ん-、なんでだろ、小さいときから好きなんだ。家に大きいのがあってさ。かっこいいし、規則正しく動いてるものって見てて安心するし」

 そこでドノヴァンの顔にいたずらっぽい笑みがひらりと舞った。

「だからかな、たまにいつもと違うことが起こると逆にわくわくしちゃってさ、いろいろ試したくなっちゃうんだよね。こう言ったらどんな反応するのかなとか、ここで手握ったら赤くなっちゃうのかなとか」

「……えーと、それ時計の話?」

「もちろん。でもあんまり特別な理由はない気がするなあ。たぶん――」と天井の高さと食堂の広さを測るように視線を動かし、ドノヴァンはその目をぴたりと紗月の顔に戻した。

「……時計の話だよね?」

「もちろん。ね、智偉とは地球にいたときから知り合いだったの?」

「ううん、違うよ。でも運命共同体なの」

 ドノヴァンの眉が上がった。その眉はたちまち中央に寄り、片方だけぐっと上がり、端正な顔をおどけた表情に変えた。

「いいなあ、智偉は。信頼されてるんだな。俺、前に怒られたんだよ。紗月のことからかうなって」

「え、そうだったの? ……うーん、でもしょうがないかも。だって、会ってすぐつきあって、なんて言うんだもん」

「からかったわけじゃなかったんだけどね」

 声が真面目な響きを帯びた。大きな手が紗月の手に重なる。紗月は急いでカップに目を落とした。

 しばらくして智偉とデイが帰ってきた。デイは二人がお茶を飲んでいるのを見て調理場に行こうとしたが、智偉が逃がさぬとばかりにその手をつかんだ。

「いいよ、デイ、ちょっと上で休憩しよう。疲れただろ」

 智偉は珍しく強い口調でそう言うと「じゃ、ドノヴァン、ごゆっくり」と言い残し、ですが、夕食の準備が、などとあわてふためくデイをひっぱって食堂を出ていった。

「あれ、もしかして一緒に寝るのかな?」

 ドノヴァンがあっけにとられたように紗月を見た。

「えっ……ま、まさか」

 妙な沈黙が流れた。

「ま、ごゆっくりって言われたからもう少しいようかな」とドノヴァンがカップに手を伸ばした。


 バスの明かりを見えなくなるまで見送り、紗月は絶えずゆるみたがる口もとをお祈りをするように組んだ手でなだめながら坂道を戻った。まだ隣にいるかのように体の右側が温かい。一歩ごとに表情やしぐさや声がよみがえり、まるで柔らかな水の中でたゆたっているようなふんわりとした気持ちだった。

 智偉は紗月のノックにドアを開けるなり、まくっていたシャツの左袖を下ろしながら自分が見たものを早口で語りはじめた。目の輝きもおさえきれない喜びが全身からほとばしる様子もすっかりもとの智偉で、紗月はほっとする一方、やはり行かなくてよかったとひそかに思った。一緒に行っていたら、彼のおそらく人生最高の瞬間に水を差すことになっていただろう。帰ってきたときの様子ではデイも元気を取り戻していたようだった――もしかすると、と頭の片隅でそっと風がささやいた。あのキトリという女性が二人のために今日の雨を降らせてくれたのかもしれない。すべて元通りとはいかなくても、世界は何かを失うばかりの場所ではないと二人が思えるように。

 智偉は話しながらしきりに左肘をさわっている。首の後ろはよくさすっているが――ふいにまた口もとがゆるみそうになり、紗月は無理やり唇をねじまげた。ドノヴァンのくせは大事なことほどそれを中和するかのようなのんびりした口調で言うことと、あっけらかんとおかしな言い訳をすることだ。今日だって急に背中がかゆくなったなんて真面目な顔で――

「で、紗月はどうだった? ドノヴァンとの時間、宇宙の外側見るより有意義だった?」

「――えっ? あ、う、うん。有意義にすごしたよ」と紗月は思わず座り直した。食事中ではないが、さすがに寝ぼけたドノヴァンにプロポーズされたとは言えない。そもそもあれは現実だったのだろうか。夢だったのかもしれない、だからこんなにくすぐったくて、ドノヴァンもあんなに幸せそうで――

「あれ、なにその顔。有意義って具体的には何してたんだろう?」

「な、何って……雨が降ってたからここに来てくれて、話してたの。それだけ」

「ほんとー? あやしいなあ」

「もう! 何もないってば」

 肩をドン、とたたくと智偉は「いてっ」と笑いだした。

「……智偉くん、腕どうかした?」

「えっ?」

 左肘をさわっていた手がどきっとしたように引っこんだ。

「そこ、ずっとさわってるけど。どうかしたの?」

「ああ、うん、ちょっとね、森で転んじゃって。大丈夫、なんでもないからデイには内緒にしといて。――そうだ、デイといえばさ」と智偉は今日聞いたというデイの生い立ちを語った。

「あと、デイは目が悪いんじゃなくて、逆によすぎるらしいんだ。あの眼鏡は視力をおさえるための眼鏡で、ギルリッソさんの特別製なんだって。ギルリッソさんっていろいろ本当にすごいよな」

 以前紗月が言った「かけるとサヤルルカ語が読めるようになる眼鏡」も案外本当にあるかもしれない、と智偉は笑った。

「そんな人のところで修行してるんだから、ドノヴァンもきっとすごい時計職人になるよな」

「……智偉くん、ドノヴァンに私のことからかうなって言ってくれたの?」

「ああ、うん。でも今はそんなんじゃないってわかってるよ。そんなやつじゃないって」

「……なんで?」

「一緒にいて幸せそうだからさ」

 首の後ろをさすっていた手を下ろして智偉が微笑む。紗月の胸の奥、心臓より奥の小さな空間がぽっと明るく温かくなった。

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