6-5
その日の夕食後、キトリの家に行ったと切りだすと、デイは一拍間をおいてから「そうだったんですか。気づきませんでした」と目をふせた。少なからぬ衝撃を受け、それを隠そうとしているのは明らかだったが、行ったって言っても、と口から出かけた言葉をひとまず――紗月にはそのあたりの話は聞かせたくない気がしたこともあり――飲みこみ、智偉はそこであったことを話した。キトリの疲れた様子はもとより、ムールトリークのしぐさが頭にこびりついている。以前観た海外のサスペンス映画で、主人公の女性が仲間の死を川の対岸にいる別の仲間に知らせるため、自分の首を手刀で切るまねをしてみせる場面があった。ムールトリークのしぐさがそれと似ているような気がしてならなかったのだ。
テーブルに三人ぶんのカップが置かれている。そこから立ちのぼる湯気が見えなくなった頃、膝に重ねた自分の手を見つめていたデイがゆっくりと口を開いた。
「智偉様、紗月様、キトリの目が片方青いことにはお気づきですか?」
「あ、うん、お父さんが地球人だからだって前に聞いたけど」
驚いたように顔を上げた紗月の隣でデイが小さく頷いた。
「その通りです。キトリには地球人の血が半分流れています。めったにないことですが、彼女が初めてではありません。その場合、つまりアトラス人と地球人の間に子がもうけられた場合、産まれてくる子供は必ず女の子で、自身は子供をつくることができない体であるとされています。ですからおそらくキトリもそうでしょう。
キトリと一緒にいる赤ん坊は、名前をムールトリークといいます。
アトラスでは犯罪はめったに起きません。特に殺人は絶対起きないと言ってよいでしょう。――なぜかというと」
デイが小さく息をついた。
「殺人を犯した者はその時点で不老不死となるからです。
ムールトリークは八十年近く前に産まれた赤ん坊なんです」
あるところに、とはデイは言わなかった。
昔、ある女性が家に帰ると夫がドアのそばで息絶えており、そのかたわらに八ヶ月になる息子がいた。夫の死因は心臓発作で、息子はそれ以来成長するのをやめ、それから約八十年その日の姿のまま生きている。
「え、だってそんなの」
言いかけて口をつぐむ。その先は聞かれてはいけない気がした。紗月は話の流れについていけないという顔をしている。その通りです、とデイが目をふせたまま悲しそうに微笑んだ。
「何があったのかは誰にもわかりません。おそらくムールトリークにもわかっていないでしょう。彼はドアの前に座りこんでいたのかもしれません。もしかすると遊んでいるつもりで、苦しむ父親の脚にまとわりついたのかもしれません。ただ、仮に私たちの想像の通りであったとしても、少なくとも故意にやったのではないことはたしかです。まだ八ヶ月の赤ん坊だったのですから。
ですが、彼がこうなったということは、彼がそのとき何をしたにせよ、あるいは何をしなかったにせよ、父親の死に何らかの形で関わったということです。……アトラス様がそうお考えになった、ということです」
死ぬ方法はひとつ、自分で命を絶つことだ。しかしムールトリークはそんなことはできない。そのため彼の母親が死亡してからは村の女性たちが協力して彼の面倒をみてきた。今はキトリがその役目を負っているのだという。
すきまのない沈黙が食堂をおおった。『間』のことや図書館の本の内容、ギルリッソの言葉が智偉の頭に無秩序に浮かんでは消える。
「家具が外に出ていたというのは、ムールトリークがぶつかって怪我をしないように、ということではないでしょうか?」
小さな額に浮きあがっていた青あざがよみがえり、我に返ったが、やはり腑に落ちなかった。ムールトリークはともかく、あれではキトリが生活できないではないか。するとそんな智偉の考えを察したのか、デイが「私も明日様子を見にいってみます。もし必要があれば彼の世話をほかの者にかわることもできますし」ととりなすように壁の時計を見上げ立ちあがった。
「調理場の片づけをしてまいります。お茶、ありがとうございました。おやすみなさいませ」
隣で階段を上る紗月は無言だ。横顔が心なしか青ざめて見えるのはおそらく廊下の電気のせいだけではない。智偉も体の芯が冷えているのを感じていたが、それ以上にその冷たさに抵抗しなければならないという気持ちになっていた。アトラス様が何者であろうと、そうやすやすと手のひらの上で飼いならされたくはない。自分たちはアトラス人ではないのだ。ちょっと話したいことがある、と智偉は紗月を入れて部屋のドアを閉めた。
「帰ったあと僕らが地球で会えたら、記憶が戻るかもしれないって思ったんだ」
前置きなしの結論に紗月がはっと顔を上げた。
今までアトラスに来た地球人はみんな一人だった。ここにいる期間が重なっていたこともあったようだが、来る前にいた場所が違えば地球で再開する可能性はほぼゼロに等しい。お互い記憶がなく、探している自覚もない状態で智偉がアンドリューに会えたとしたら、それこそ神様が気まぐれで起こしたいたずらな奇跡と言っていいだろう。
しかし、自分と紗月なら。面識はなかったが、同じ場所にいた二人なら。アトラスで過ごした地球人同士が地球で会う、それが「通常とは異なること」なのではないだろうか。
紗月はじっとうつむいている。勢いこんでいた気持ちが急速にしぼんでいき、智偉は首の後ろをさすった。一人で考えていたときは多少の自信があったのだが、口に出すと何の根拠もないただの空論にしか聞こえなかった。
「馬鹿げてるかな」
「ううん、そんなことない。智偉くんがそう思うならそうなのかも。……でも」
言葉がとぎれた。
窓の外にはきっといつも通りの宇宙が広がっているが、部屋の中が明るいせいで今は星が見えない。ふとこの部屋の外のものはすべてつくりものだという気がした。ここにいる自分と紗月、本物は自分たち二人だけ――
「でもさ、一緒に来たんだから帰るときも一緒なんじゃないかな。目が覚めたらここに来たときみたいに隣のベッドに寝てるかも。どこかの病院でさ」
「ううん、そうじゃなくて、その……智偉くん、前にアトラス様は神様なのかもって言ってたじゃない? ギルリッソさんもアトラス様に逆らうべきじゃないって言ってたなら」
「じゃ、紗月は忘れてもいいの? ルンゲとか、……ほかの人のこと、忘れたくないって思わないの?」
「……それは」
儚い星の瞬きのような紗月のつぶやきに、智偉は左腕を強く押さえた。
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