6-4
ムールトリークの背中をたたいていたキトリの手がとまった。
「アンドリューさんが地球に帰る前、キトリさん、宿泊所に会いにきてましたよね。それはやっぱり、キトリさんにとってもあの人が特別だったってことじゃないんですか?」
「特別って? 好きだったんじゃないかってこと? たしかにつきあってはいたけど、好きだったわけじゃないわ。あんな人好きになったってしょうがないじゃない、いついなくなるかわからないうえに最後には忘れられるんだもの。彼とつきあってたのはね、単に興味があったからよ。彼は兵士だったの」
ノートを持ってきたアンドリュー。黄緑、カーキ、茶色、ベージュ、その他いくつもの名前の知らない色がまざった迷彩服――
「あなたも地球人なら知ってるでしょ? 兵士がどんな職業か。戦って人を殺すのよ。すごいわよね、そんなのここじゃ考えられない」
感情のない声が淡々と流れていく。言葉が見つからずふせた目の端に、キトリの膝からすべりおりたムールトリークがはいはいでキッチンを出ていくのが映った。
「死んだら地球に行けないかしら」
はるか遠くから声が聞こえて目を上げると、目の前の青と茶色の瞳は智偉を通り越して別の何かを見ていた。その遠さに心がざわりと音をたてる。
「あなたたちがここに来るのは死にかけたときでしょ。私も死んだら地球に行けないかしら」
「……」
「なんてね、冗談よ」
瞳がこちらに戻ってくる。そのまま智偉を見ずに小さく笑い、キトリは立ちあがってキッチンから出ていった。世界に一人で取り残されたような気がして後を追うと、キトリは居間の床にあおむけに寝転がるムールトリークのそばに座っていた。あとほんの一滴水が落ちただけで粉々になってしまうのではないかと思うような姿だった。
「キトリさん……大丈夫ですか?」
力のない目が智偉を見上げ、ムールトリークに戻った。もう取り繕う気力もないらしい。視線の先で赤ん坊が寝返りをうって腹ばいになる。
「じつは、最近あんまり寝てないの。ムールから目を離せなくて……夜中もベッドから降りて勝手にあちこち行っちゃうのよ。お昼寝も全然しないし」
智偉は部屋の隅に並ぶ茶色い木のベビーベッドとキトリのベッドに目をやった。
「あの、もしよかったら、僕ムールを見てましょうか。あんまり長い時間はいられないですけど、キトリさん、ちょっと休んだほうがいいんじゃ」
キトリが再び目を上げた。
微動だにしない瞳から感情が読みとれず、さすがに厚かましかったかと思いはじめたとき、「ありがとう。じゃ、お言葉に甘えようかしら」とキトリがゆっくりと立ちあがった。
「でも絶対目を離さないでね。お願い」
キトリは居間を横切ってベッドに入った。布がこすれあう音がしていたが、すぐに静かになった。
智偉が床に腰をおろすと、ムールトリークは起きあがって絨毯の毛糸の編み目をひとつずつ指で押さえはじめた。そのまま少しずつ前に進んでいきながら、ときどきちらっとこちらを振り返る。なんだか僕のほうが監視されてるみたいだな、と智偉はぼんやりその後ろ姿を眺めた。不思議な赤ん坊だった。常に無表情で、泣いたり笑ったりしているところを見たことがない。身近に赤ん坊がいたことはないが、それでもどこか違和感があった。みんなこんなにおとなしいものなのだろうか。
「ムール」
小声だったが、ムールトリークは振り返り、はいはいで戻ってきた。智偉の膝に手をかけて立ちあがり、よじのぼろうと片手を伸ばす。支えたほうがいいかと持ちあげた左腕を小さなその手がぎゅっとつかみ、「いっ、て」と智偉は思わず顔をゆがめた。ムールトリークが智偉を見上げ、シャツの左袖をぐいとたくしあげた。
「ごめん、なんでもないよ」
シャツを直そうと智偉は右手を上げた。左肘をじっと見ていたムールトリークがその手を両手でつかみ、指先を自分の首にあてて横に引いた。
反射的に手を引っこめた、とたんに赤ん坊が支えを失ってぺたんとしりもちをついた。はっとしたが、赤ん坊は泣きもせずこちらを見つめている。感情の気配のない、無機物のような瞳だった。
背筋がぞくりとしたとき衣擦れの音がして、振り向くとキトリが体を起こしていた。
「ありがとう。ちょっとすっきりしたわ。ムール、おりこうにしてた?」
「あ、はい……大丈夫ですか?」
「ええ、ありがとう。智偉くん、時間は大丈夫?」
キトリがそばにやってきてムールトリークを抱きあげる。なんとなく流れで立ちあがり、智偉は外に出た。
「ほんとにありがとう。ランプもね。――よかったら、また来てね」
笑ってドアを閉めたキトリは以前襟足にふれたときとは別人のように、どこか幼い少女のように見えた。
歩きだそうとして少しためらい、家の裏にまわってみると、中にあった家具が窮屈そうに肩を並べていた。
(これは模様がえっていうのか? なんでこんなところに出してるんだろう)
棚の引き出しを開けてみようかと思ったが、さすがにそれはやめた。
少し迷ったが、そのままそこを後にした。
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