6-6

 翌日、宿泊所の仕事が一段落するとデイは森に向かった。ドアをノックする前に木の小屋のまわりを一周し、家具が外に出ているのを確認する。キトリは驚いたようだったが、すぐにデイを中に入れた。薄い布を何枚も重ねたような形の白いネグリジェ姿だった。

 キトリはムールトリークに食事をさせていたところだった。デイは殺風景な部屋を横切ってキッチンに入り、中を見回した。

「キトリ、やかんはどこですか?」

「あ、ごめんなさい。一番上の棚よ。ポットもそこにあるわ」

 棚にはやかんとポットのほかにもカップや皿やボウルなどが入っていた。食器の横にはスプーンとフォークとナイフ、その奥に鍋や包丁など調理器具が入っている。そのかわり調理台の引き出しはからっぽだった。デイは元栓を開けてやかんにお湯をわかし、ポットとカップを取るためもう一度椅子に乗った。

 居間に戻るとベビーベッドの上にかがんでいたキトリが体を起こした。

「寝ちゃったわ。一晩中起きてたからさすがに限界だったみたい」

「キトリもずっと起きてたんですか?」

 キトリは頷くように小さく首を傾け、床に置かれたお盆からカップをとって口をつけた。

「大丈夫ですか? あなたも少し寝たほうがいいのでは」

「ありがとう。でも大丈夫よ」

「いえ、寝てください。ムールトリークは私が見ていますから」

「本当に大丈――」

「トモイ様が心配なさってたんです。あなたが疲れているようだったと」

 強い声ががらんとした空間に響き、消えた。

 やがてキトリが小さく微笑んだ。

「トモイくん。あの子、いい子ね。前、ルウマの店の帰りに、荷物を持つのを手伝いましょうかって言ってくれたの」

「……ええ、聞きました」

「これまで荷物を持とうかって申し出る男はみんなそのあとが本当の目的だったけど、トモイくんは純粋に私を手助けしようとしてそう言ってくれたのよ。そういえばアンドリューもそうだったわ。そう考えたら、地球の男も案外捨てたもんじゃないわね」

 デイは手の中のカップに目を落とした。琥珀色の小さな水面がわずかに揺れた。

「もしかしたら、私の父親も単に母を弄んだだけじゃなかったのかもしれない。本当に母を愛して、泣いて苦しみながら地球に帰ったのかもしれない。……母は何も教えてくれなかったけど」

 こくり、と喉が上下する。

「好きなの?」

「……」

「いつから?」

「……」

「初めからね」

 筒型のカップにじっと向きあっていたデイの頭が、やがて小さく振れた。

「初めから、ではありません」

 キトリはデイを見つめていたが、やがて「そう、ね。じゃ、アトラス様と友人の恵みに感謝して、少し寝かせてもらおうかしら」と立ちあがった。

「ムールが起きたら起こしてね」

 部屋の中は再び静かになった。

 しばらくしてムールトリークが身動きするのが見えた。デイは額に痛々しい青あざが広がる赤ん坊を足元からそっとのぞきこんだ。

「起きたんですか、ムールトリーク。まだ寝ていていいんですよ」

 それはささやき声だったが、ムールトリークは目をこすり、木の柵の中でころんと寝返りをうって起きあがった。ぱっちり開けた目と目が合う。デイが微笑んだとき、ムールトリークが細い人差し指で自分を指さした。続けて小さな手のひらを開き、指先を自分の首にあてて横に引いた。

 デイは目を疑った。指さしては引き、指さしては引き、赤ん坊は無表情のまま何度もそのしぐさをくり返した。

「それ、最近よくやるのよ」

 キトリが起きあがっていた。

「ムール、死にたいんじゃないかしら」

 デイの喉に冷たい空気が吹きこんだ。キトリがのろのろとベッドから降りて横に立つ。惰性のような動きで手を伸ばしたが、抱きあげられた赤ん坊は体をねじった。

「だって、もう八十年近くたってるのよ。充分報いは受けたと思うわ。――いつになったら終わるのかしら。それとも、本当に永遠に終わらないのかしら」

 赤ん坊がはいはいで部屋の中央に行き、毛糸の絨毯にあおむけに寝転がる。

「それでもね、食事はするのよ。不思議よね、食べるのをやめれば死ねるのに、私が用意するとちゃんと食べるの。ムールなりに気をつかってくれてるのかしらね。そしてまたなんとか一日をすごすの。一度包丁を持ってたこともあったのよ」

「ほかの人にかわりましょう」

 キトリが顔を上げた。

「ムールトリークの世話を交代しましょう。女王様と王様に相談します」

「……そう、ね」

「いったん私が預かります」

 デイは床に膝をついた。しかし手を伸ばすより早くキトリがムールトリークをさっと抱きあげた。

「いえ、それはだめよ。あなたは宿泊所の仕事があるでしょ」

「でも」

「大丈夫よ。たしかにちょっと大変だけど、私、今幸せなの。私は子供を産めないのに母親役をやらせてもらえたんだから」

 キトリの手のひらがムールトリークの小さな頭から背中にかけてゆっくりとすべる。何度もくり返すその動作は優しく、まるで年老いた赤ん坊に敬意を表しているかのようだった。

「おかしいわよね、命じられたから一緒に暮らして、赤ちゃんだから世話をしていただけなのに、死にたがってることに気づいたとたん守らなきゃいけないって思うようになるなんて。前は一晩中一人で家に置いて出かけたりしてたのにね……全然いいお母さんじゃなかったし、今さらこんなこと言ってももう遅いけど、でも私は幸せだったわ。誰かを失いたくないって思うのがこんなに幸せなことだなんで知らなかった。私もそう思える誰かに出会いたかったんだって、本当はずっとそう望んでたんだって、ムールが教えてくれたのよ。――でも」

 ふと手がとまった。

「もう、終わりにしたほうがいいわよね」

 ドアを出てデイが振り返ると、キトリは両手でムールトリークを抱いて微笑んでいた。身にまとっていたものをすべて取り払ったかのような晴れ晴れとした笑顔だった。

「ありがとう、デイ。あなたが来てくれてよかったわ。トモイくんによろしくね」




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