6-3

 昼と夕方の中間の時刻に戻ると、宿泊所の中には穏やかな静寂が満ちていた。紗月は『ぼくとロボット』を頭のそばに置いたままベッドでうたた寝をしている。智偉は細く開けたドアから頭を引っこめ、音をたてないようそっと閉めた。

 ここ数日紗月は沈みがちだった。限りある時間の中でせっかく気持ちが通じあったのに何を迷うことがあるのかと思うが、個人的なことであるのとまたよけいなことを言いたくないという気持ちもあり、紗月のほうから話してくれるまではふれずにおこうと智偉は思っていた。たとえ押し殺していても、泣き声はいびきよりも壁に響くらしいということは紗月も知りたくないだろう。

 部屋の中が明るかったためか、紗月が眠っている姿には悲愴な感じはなかった。デイも調理場で丸椅子に座って舟をこいでいる。束の間の平和を乱すのも忍びなく、そのまま先日買ったランプを持って宿泊所を出た。

 木の小屋の中からは何の物音も聞こえない。深呼吸をしてノックするとややあってドアが開き、キトリが驚いた顔をした。

「ああ。忘れてたわ」と智偉が差しだしたランプに口元が小さくゆるんだが、その微笑みにはいつもの匂いたつような華やかさがなかった。目の下にくまができ、少しやつれているようにさえ見える。

「わざわざありがとう。よかったらお茶でも飲んでいかない? ――いいじゃない、つきあってよ。まだ夕食の時間じゃないでしょ。ちょっと気分転換したいの」とうながされるまま部屋に入り、智偉は思わず中を見回した。

 家具がほとんど何もない。ソファも、ローテーブルも、その上に飾られていた花も、先日ランプが置いてあった棚もなくなっている。硬くむきだしの木の壁と床には生活の温度がまるでなく、壁際のベッドと赤とオレンジの絨毯、その上で絵本を立てては倒し、立てては倒ししているムールトリークだけがどこか別の場所から連れてこられてぽんと置き去りにされたかのような、寒々しい空っぽの空間だった。

「なんか……ずいぶんシンプルになりましたね」

 ムールトリークが智偉を見上げた。額に大きな青あざができている。

「ええ。模様がえよ」

 キトリの声が奥から答えた。ムールトリークが絵本を離し、はいはいで方向転換する。後を追うようにキッチンに入ると、赤ん坊はキトリの脚でつかまり立ちをしていた。

「ムール、どうしたんですか? そのあざ」

「ちょっとぶつけたの。智偉くん、座ってね」

 キッチンも目に入るところには飲みさしのカップどころかふきんの一枚もなく、丸い脚の木のテーブルと二脚の椅子だけが先日のままだった。キトリと顔を合わせるのは前回この椅子に座ったとき、ランプを割ってしまった日以来だった。

「最近ルウマさんの店にいらっしゃいませんでしたね」

「ええ、このところムールがよく動きまわるから目を離せなくて。必要なものは人に買ってきてもらってるの」

(ああ、それでか)

 二、三日前に男の客が缶詰のスープをドネルに見せ、これは乳児が食べられるかと聞いていたのだ。その男はちょうど帰るところだった智偉と同じバスに乗り、同じバス停で降り、違う方向に坂道を登っていった。あの日鉢合わせしたのとは違う男で、智偉はどうにも複雑な気持ちを大人の世界にいだきつつその後ろ姿を眺めたのだった。

「お湯がわくまでちょっと待ってね」

 棚の一番上の扉を開けてカップを取りだし、キトリがゆっくりと椅子から降りた。やかんに水を入れて火にかけ、椅子を正面に戻してムールトリークを膝に抱きあげる。どれも妙に緩慢で、彼女にだけまわりより強い重力がかかっているかのような動きだった。

「――なあに?」

 耳を通りすぎたふう、というため息に気をとられていた智偉は、あわててキトリの顔からテーブルに目を落とした。

「いえ、あの、なんだかいつもと雰囲気が違うなと思って。いつもの、こう、なまめかしい感じがないというか」

 キトリの目が丸くなった。

 次の瞬間「あはは」と笑い声が響いた。今までとまるで違う、さばさばした大きな笑い方だった。キトリはひとしきり笑うと、あっけにとられている智偉に愉快そうな目を向けた。

「あのね、私だって誰彼かまわず誘惑してまわってるわけじゃないのよ」

「……あ、そうなんですか?」

「そうなんですかって。智偉くん、意外と失礼ね」

「いや、だって」

 あわてて反論しかけた声に重なってシューッと音がし、キトリの後ろのやかんから勢いよく湯気がたちはじめた。

「悪いけど、ちょっと抱っこしててくれる?」

「あ、はい。――ありがとうございます」

 筒型のカップを二つテーブルに置き、キトリは智偉の手から赤ん坊を抱きとって再び椅子に座った。

「ま、たしかにお客さんは多いわね。でもほとんどは向こうから勝手に来るのよ。私はこの家にいて、来た人を入れてあげる、ただそれだけ」

「……じゃ、アンドリューさんは」

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