4-6
翌日、昨日より早く宿泊所に戻り、智偉はキトリのランプを持ってもう一度部屋を出た。少なからず緊張して調理場をのぞいたが、「おかえりなさいませ」とデイが浮かべた微笑みはいつも通りの穏やかさで、何とはなしにほっとした。
ランプを返しにいってくるというと、デイは「はい、では暗くならないうちに……」と言葉を切り、ためらいがちに智偉を見上げた。窓の外はまだ明るいが、雲を照らす陽の色が夕暮れに近づきつつある。
「わかってる、キトリさんのうちより奥にはいかないよ。返したらすぐ帰ってくる。じゃ、いってくるね」
森の中は薄暗いが、木々の葉の間から陽が差しているため歩くのに不自由はしなかった。ところどころに黄色い花が咲いている。
あんなに心配させて悪かったと思う反面、不可解に感じる部分もないではなかった。見るかぎり静かな森だし、女性が赤ん坊と二人で――二人のはずだ――暮らしているくらいなのだからそうそう危険なことはなさそうなものだが、万に一つもということなのだろうか。とはいえほとぼりが冷めるまでは下手に尋ねることもしないほうがいいだろう、と智偉は興味の対象をひとまず森の中の風景にとどめることにした。
木の小屋のドアをノックしかけたとき、中から人の声が聞こえた。
「……あ……んっ……」
反射的にまわれ右をする、その拍子に持っていたランプが柱にぶつかり、パン、と大きな音をたてて割れた。しまった、と頭の中に警報が鳴り響き立ちすくんだ次の瞬間、
「誰だ⁉」
下着姿の男が飛びだしてきた。ばちりと目が合い、気まずい空気が流れる。
「どうしたの?」
シーツを体に巻きつけたキトリが男の後ろから顔を出し、目を丸くした。
「……すみません」
「いいのよ、気にしないで。こちらこそごめんなさいね。びっくりしたでしょ?」
やかんのお湯をポットにそそぎながらキトリが半分振り向いて微笑んだ。その足元にムールトリークがつかまり立ちをしてまとわりつく。いえ、と身を縮めているとテーブルにカップが置かれ、その向こうに赤ん坊を膝にのせたキトリが座った。そそくさと帰っていく男の後ろ姿をランプの破片を集めながら目をそらして見送った、約十分後のことだった。
「アトラスの暮らしはどう? もう慣れた?」
「あ、はい。食べ物も地球と変わらないし、翻訳機があれば言葉にも困らないですし。正直、ここが地球じゃないってときどき忘れそうになります」
「あら、そうなの?」とキトリの声に笑いがにじんだ。
「よかったわ、気に入ってもらえて。いつ帰れるかわからないのに不安じゃないの?」
「はい、毎日すごく刺激的ですし、いろいろ興味深いので。それにいつになるにせよ――」
「そうなの。じゃ、このままアトラス人になっちゃったら? 地球には私がかわりに帰ってあげるから」
何気ない口調だった。顔を上げるとキトリがにっこりした。
「私の目、左が青いでしょ。これは地球人の血が流れているからなの。私ね、父親が地球人なのよ」
流れ落ちた言葉の意味を理解するのが一瞬遅れた。目の前の青と茶色が混ざりあい、ふと見たことのない色になる。
「昔、ある男がある女性を妊娠させて、赤ん坊が産まれる前に地球に帰ったの。キトリという名前は彼が考えたらしいんだけど、その子が父親について知っているのはそれだけ」
「その、女性は」
「もういないわ」
「……すみません」
「いいのよ、もう何年も前のことだから」
キトリの指がムールトリークの細い髪を優しく
「でも、その……その人、つらかったと思います。その女性と別れて地球に帰るの、もちろん赤ちゃんのことも」
「さあ、どうかしらね。どうせ地球に帰ったら忘れちゃうんだもの」とキトリが首をかしげた。
「そんなことありません。そんなに愛しあってたなら」
「子供ができたからって愛しあってたとはかぎらないわよ」
その声には色も温度もなかった。沈黙が重くのしかかってくる。何か言わねばならなかった。もし本当にその男がそういう種類の人間だったとしても、地球人の男すべてがそうなわけではない――少なくとも自分は違う。それでも今ちゃんと答えられなければ、おそらくキトリは自分を許してくれないだろう。
「でも、アンドリューさんは」
苦しまぎれだったが、顔を上げたキトリの表情を見たとたん天啓がひらめいた。食堂で会ったとき、アンドリューは智偉と話す前に一度席をはずした。彼はあのとき――先にデイと話していたにもかかわらず――翻訳機を部屋にとりに行ったのではないだろうか。『あれはこういう場合でも使えるのか』、あの言葉は翻訳機は地球の言語同士でも使えるのかという意味だったのだ。キトリへの愛と彼女たちへの贖罪の気持ち、あのノートがあんなにぼろぼろになるまで彼が勉強したのはそのためだったのではないか。だから智偉が受けとったときあんなに寂しげに微笑んだのではないだろうか。
「彼がなに?」
「アンドリューさんは覚えてるはずです。キトリさんのこと、本当に好きだったと思うんです。だって」
「覚えてないわよ」
キトリが笑った。嘲るような笑い方だった。
「……どうしてそう思うんですか?」
「そういうことになってるからよ。デイから聞いてないのね」
「え……何をですか?」
キトリは少し首をかしげて智偉を見た。
呆然としている智偉を送り出し、キトリはドアを閉めた。振り返るとたった今床に下ろしたムールトリークがいない。
「ムール? ――ムール!」
キッチンをのぞき、キトリはあわてて調理台の上に座っていたムールトリークの手から包丁を取りあげた。
「ムール、だめよ、これはだめ。危ないってわかってるでしょ? どうしたの?」
赤ん坊は無表情だった。
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