4-5
森の空気は冷たい。歩いているうちに鼻の奥に残っていた甘い香りが薄らいでいき、気分がすっきりしてきた。
森に入ったのは初めてだった。
『外側につながってるんだぜ』
足がとまった。
衝動的に体の向きを変えかけたが、一歩踏みだした靴の下で葉っぱが乾いた音をたて、智偉を踏みとどまらせた。あたりはランプがなければ足元が見えないくらい暗く、キトリの家の明かりはもう見えない。
(いや、だめだ。今これ以上奥に入ったら絶対迷って帰れなくなる。それにデイとの約束をこれ以上やぶるわけにはいかないだろ)
ようやく森を出て建物をまわりこむと、開けっぱなしの玄関の前に紗月とデイが立っているのが見えた。白い明かりに照らされたデイが振り向き、大きく見開かれた無防備な目にあれ、と違和感が思考を横切った刹那――
「智偉様!」
眼鏡が投げ捨てられるように地面に落ち、ガシャンという意外なほど大きなその音に驚く間もなく智偉はデイに両腕をつかまれていた。今にも泣きそうな顔で、いつもの穏やかな微笑みからは想像できないほど強い力だった。紙袋が地面に落ち、林檎がごろごろっと転がり出る。
「どうしてそちらから、まさか森に行かれたんですか⁉」
「違うよ、あ、いや、行ったは行ったけど、ドネルのうちから帰るときにキトリさんに偶然会って、家まで荷物を持つのを手伝ったんだ。それだけだよ」
とたんにデイの表情が凍りついた。
「キトリの家に……」
世界から温度がなくなったかのような声だった。腕をつかんでいた手から力がぬけた。
「……そうでしたか」
「ごめん、ほんとに、心配かけて」
「いえ、私こそ申し訳ございません。――夕食の準備を致します」
デイは顔を上げずに一礼し、眼鏡を拾うと、立ちつくしている紗月の横をすりぬけて中に入っていった。転がった林檎を紙袋に入れ、智偉は後を追った。
デイはぼんやりと機械的な手つきで鍋をかきまわしている。入口から声をかけると我に返ったようにこちらに顔を向けたが、すぐに「申し訳ございません、すぐにご用意しますので少しお待ちください」と鍋に戻った。
「あ、いや……あのさ、これルウマさんがくれたんだ、林檎。デイにパイでもつくってもらってって」
デイは手をとめて紙袋を受けとり、中をのぞいて小さく微笑んだ。
「こんなにたくさん……ありがとうございます」
「本当に、ごめん」
「いえ、私こそ先程は申し訳ございませんでした。つめよったりして」
デイは紙袋を調理台に置いて深く頭をさげ、林檎を冷蔵庫に入れはじめた。
「いや、でも、約束してたのに森に行ったのは僕だから」
「いえ、キトリの家のあたりまででしたら危険ではないので大丈夫です。――夕食はすぐにご用意しますので、少しだけお待ちください」
デイは再び鍋に向き直った。何光年も離れた場所にいるかのような後ろ姿だった。
その後、夕食を運んできたデイに紗月が一緒に食べないかと声をかけたが、デイは「いえ、私は調理場で頂きます」と丁寧に一礼して立ち去った。
「……デイってなんでもう働いてるのかな。まだ十四歳なのに」
「さあ……何か事情があるんだろうな」
デイは毎日外から通ってきており、朝食の時間に食堂に下りていくと、テーブルにはすでにおいしそうな湯気をたてる二人分の皿、その横にそれぞれのお弁当も用意されている。日中は宿泊所内の掃除や洗濯、食材や日用品の買い出しのほか王宮で用事をすることもあるらしいが、紗月が学校から帰る時間には必ずいるという。その後夕方から夜にかけて二人の夕食やら入浴室やらの準備をし、八時頃帰っていく。一度朝食前にパジャマのまま廊下で遭遇したことがあったが(デイは相当驚いたらしく顔を真っ赤にしていた)それ以来夜中や早朝に小腹がすいてもいいようにか、何かしらつまめるものが必ず冷蔵庫に入っているようになった――そして紗月はなぜデイがそういう立場にあるのか、自分たちでさえ学校に通わせてもらっているのになぜデイはそうではないのかが気になって仕方ないようだった。一度何かの折に尋ねていたが、「私にとって必要なことはすべて王宮で学べますから」とデイが例の口調と微笑みで答えたため、それ以上は突っこんで聞けなかったらしい。それでもどうしても気がひけるらしく、食器をさげたりなど何かしら手伝おうとするのだが、いつも丁寧に断られている。
「私、手伝わないほうがいいのかな」
「うーん、デイは仕事でやってるから、僕らにやらせちゃいけないと思ってるんじゃないかな。ま、気になるなら手伝いたいと思ったときに申し出るぶんにはいいんじゃない」
紗月が心配そうな目を調理場に向ける。智偉も気にはなったが、今は少し距離をおいたほうがいいような気がしていた。
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