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夕方、坂のふもとの停留所でバスを降りた智偉の手には林檎がどっさり詰まった紙袋があった。仕入れの量をまちがえたとルウマが持たせてくれたのだ。とはいえそのかなりの数に一瞬怯んだが、「いいからいいから。デイにパイでもつくってもらって」という口調に自分の母親を連想し断りきれなかった。どうやらソフィアに続いてルウマにとっても息子のような存在になっているらしい。アトラスで地球と同じものを食べられるのはやはり不思議でならないが、それも「アトラス様のお力によって」ということなのであれば深く考えるのはおそらく無駄なのだろうし(その点紗月は毎日食事のたびにおいしいと素直に感動しており、その純粋さは見習うべきかもしれないと思う)、地球に帰るまで五体満足でいなければならない以上そこでつまずかずにすむのは感謝すべきことなのだろう。
「こんにちは」とすぐ後ろで声がした。
「あ、こんにちは。同じバスだったんですね。気づかなかった」
「なんだか一生懸命考えごとしてたわね」とキトリがにっこり笑った。
「お仕事お疲れさま。あなたはお客さんじゃなくて店員さんだったのね、智偉くん。キトリ・メルニアよ。よろしくね」
自分も自己紹介し、智偉は目の前の坂道を見上げた。キトリはスリングで赤ちゃんを抱き、両手に大きな買い物袋をさげている。
「あの、よかったら荷物持つの手伝いましょうか」
「え?」とキトリが目を見開いた。
智偉はとっさに買い物袋に目を落とした。左が青、右が茶という瞳の色の違いに遠近感を狂わされ、あどけない雰囲気の彼女の顔がふと精緻なだまし絵のように見えたのだ。するとキトリはそんな智偉を上から下まで眺め、ふいにふんわりと微笑んだ。
「いいの? 私の家は森の中よ」
(あ)
一瞬しまったと思ったが、すぐ帰れば大丈夫だろう。はい、と頷くとキトリは「ありがとう。助かるわ」と智偉に買い物袋を渡し、宿泊所とは違う方向へ坂道を登りはじめた。
「あれ、こっちじゃ」
「こっちから行くほうが近道なの」
「あ……そうですか」
赤ちゃんが手を動かすのがキトリの背中ごしに見えた。「もうすぐよ、ムール」とキトリが優しく赤ちゃんの背中をたたく。
「男の子ですか?」
「ええ。ムールトリークよ」
林檎の袋が重くなってきた。
ずり落ちてきた鞄の肩ひもを体をゆすってもとの位置に戻す。キトリが振り向いたが、智偉が荷物を持ち直すと再び歩きだした。
「え、っと、ムールは何ヶ月なんですか?」
「そうね、たしか七ヶ月か、八ヶ月くらいだったかしら」
「え?」
なんでそんな曖昧な、と思った心の声が聞こえたかのように、キトリがもう一度振り向いた。
「ムールは私の子じゃないの」
「え……あ、そうなんですか……?」
おもしろがるような笑みがキトリの顔に浮かんだ。
キトリの家は森に入って少し歩いたところにある小さな木の小屋だった。ポーチに荷物をおろし、ふう、と思わず膝に手をつくと、ひと足先に中に入っていたキトリが「ありがとう。重かったでしょ?」とスリングをはずしながら戻ってきた。
「いえ、大丈夫です。じゃ僕はこれで」
体を起こした次の瞬間、温かなものがとろりとした蜂蜜のように手を包んだ。
「手、痛かったんじゃない?」
柔らかなキトリの手が智偉の手のひらをゆっくりさする。ふわっと甘い香りが漂った。背中に電流のようなしびれが走り、智偉はとっさに手を引っこめた。
「いえ、だ、大丈夫です」
キトリがふんわりと微笑んだ。暗い廊下に浮かびあがったのと同じ微笑みだった。
「よかったらお茶でも飲んでいかない?」
「え? えーっと……」
一歩後ずさりすると同時に宙を泳いだ目が壁の時計をとらえた。いつもならとっくに夕食を食べはじめている時間だ。
「あ、いえ、今日はもう帰ります。遅くなっちゃったから心配してると思うし」
「ああ、デイね?」
キトリは部屋の中を振り返り、「ちょっと待っててね」と棚の上のランプを持って奥に姿を消した。部屋には白い花が飾られた木のローテーブルと小さなソファがあり、その下に赤とオレンジの毛糸の絨毯が敷かれている。ベビーベッドは壁際にあるらしくここからは見えなかった。
キトリが戻ってきた。ランプの中の蝋燭に小さな灯がともっている。
「これ、持っていって。外はもう暗いから」
「あ……ありがとうございます」
受けとる瞬間手がふれた。指先が智偉の襟足を優しくなでる。甘い香りが先程より強く鼻をかすめた。
「また遊びにきてね」
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