4-3

「――紗月、どうかした?」

 智偉の声でまわりがはっと宿泊所の食堂に戻った。ほとんど食べ終わっている智偉に対し、紗月の皿には夕食の鶏肉のトマト煮がまだ半分以上残っている。

「なんかぼーっとしてるけど。もしかしてまたドノヴァンに何か言われた? っていうか、どうして今日一緒にいたの?」

「あ、あの……えっと」

 もう観念するしかなかった。あの、と紗月は持ったままでいたフォークに目を落とした。

「実はちょっと前からルンゲと三人で帰ってたの。それで、今日、あのあと」


「いやあ、いいもの見せてもらったなあ。ドネルかっこいいねえ、男らしくて。ルンゲも納得したし、めでたしめでたしだね」

 ルンゲと別れたあともドノヴァンはたびたび思い出し笑いをもらしていたが、紗月はそれどころではなかった。

「あの……ドノヴァン……」

 情けないほどの震え声にこちらを見下ろし、そこで初めてドノヴァンは紗月の手首をつかんだままでいたことに気づいたらしかった。「え? ああ」という声に続いてようやく手首が空気にふれる。しかしほっと息をついたのも束の間、紗月は再び文字通り飛びあがりそうになった。

「ふぇっ⁉ な、なに」

「今日はこのままでいたいな。だめ?」

「え、え、でも」

「紗月はルンゲと友達だから手つなぐでしょ。俺も紗月と友達だもん」

 そう言ってドノヴァンはのんびり歩きだし、その後バスが来るまでそのままでいたのだった――そのまま、すなわち紗月の手首の先を握ったまま。


「それはちょっと……どうだろうな?」

 案の定智偉はむせ、咳がおさまると腕組みをして考えこんでしまった。デイが調理場から顔を出したのが見え、紗月はひとまず急いで残りの鶏肉を口に運ぶ。食べ終わる頃にデイがお茶のお盆を持って出てきた。

「な、デイも一緒にお茶飲まない?」と智偉が気をとり直したようにデイを見上げた。

「話したいことがあるんだ。――いや、違う違う、ドネルとルンゲのことだよ」

 少しして食堂に笑い声が響いた。

「そうでしたか、そんなことが。ルンゲは幸せですね」

「――あ、そうだ。ごめん、ちょっと待ってて」と紗月は席を立ち、食堂を出た。

 部屋からルンゲの絵本を持って戻ると、デイが「ああ、これは」と笑顔になった。百年近く前からある絵本で、アトラス人なら誰でも知っているものらしい。それを聞いて興味を引かれたらしく、智偉も紗月の手元をのぞきこんだ。

「へえ、そんなに有名な絵本なんだ。な、デイ、読んでくれない?」

「えっ? いえ、私は」とデイが驚いたように顔を上げた。

「いいじゃん、お願い。アトラスの伝統的な絵本ならさ、アトラス人であるデイに読んでもらいたいよ」

 デイは少しためらっていたが、紗月と智偉に見つめられ、「はい、では」と小さな声で答えて表紙を開いた。


「ぼくとロボット


 ある日 森からロボットがやってきた

 ロボットはけがをしていた

 ロボットはぼくのうちに来て一緒に暮らした

 けがが治ると ロボットはうちに帰りたくなった

 ぼくとロボットはロボットのうちに向かった

 林をぬけて 森をぬけて 遠くの月まで行った

 ロボットのお父さんとお母さんはロボットをぎゅっと抱きしめた

 ロボットはぼくに言った

 一緒にいてくれてありがとう

 一緒に来てくれてありがとう

 きみがぼくを忘れても ぼくはきみを忘れない

 ぼくはロボットに言った

 ぼくもきみを忘れない きみがぼくを忘れても

 ぼくはぼくのうちに帰った

 ぼくのお父さんとお母さんはぼくをぎゅっと抱きしめた

 ぼくはまたロボットに会いにいく

 林をぬけて 森をぬけて 遠くの月まで会いにいく」


「大丈夫? 好きになっちゃってない?」

 智偉がうかがうようにこちらを見た。心配しているような、釘を刺しているような口調だった。

 ――いやだったら振り払っていいよ。

 のんびりと歩きながら、ドノヴァンは振り返らずにそう言った。彼の手は温かく、ルンゲとは逆に紗月の手をすっぽり包みこんでしまえるほど大きかった。決して強い力ではなく、むしろふんわりと優しい握り方だったが紗月は振り払えず、喉を圧迫する動悸に声も出せず、ひたすら前を行く茶色い靴のかかとを見つめていた。

「……大丈夫。だって」

「そのうち地球に帰るんだもんな」

 智偉は窓に顔を向けていた。電気をつけているせいで星は見えなかった。



 翌日、ルンゲがドアを閉めたとたん目の前に大きな手のひらが現れた。

「今日も手つないでもいい?」

 ドノヴァンはにこにこしている。昨日はふざけただけ、ルンゲとドネルにのっかっただけ、と無理やり落ち着かせていた心臓がまたもや大きくはねあがり、口の中で言葉が右往左往しているうちに「よし、だめじゃないね」とふわりと手がつかまった。紗月は強く目をつぶって息を吸いこみ――

「俺さ、ギルリッソさんのところで時計職人の見習いしてるんだ」

 それはのんびりした、鼻歌のような口調だった。

 一瞬気がぬけた、そのすきまに初対面の瞬間がすべりこんできてぴたりとはまった。

「俺、柱時計つくるのが夢なんだ。ギルリッソさんはサヤルルカ地方一の職人なんだよ。早く技術を学んで、一日でも早く一人前になりたくて。高校クラスを卒業するまで待ってたら時間がもったいないからさ。――意外と真面目でしょ?」

 ドノヴァンがひょいと眉を上げた。おどけた言い方だったが、その声にも顔にも紗月をからかって遊んでいる気配はない。

 出かかっていた言葉が喉の中で消える。

 ドノヴァンはのんびり歩いていく。紗月は手を握られたまま、ドノヴァンには聞こえないよう息を殺して深呼吸をした。

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