4-7

 調理場はいいい匂いがしていた。

 デイが振り向き、驚いたように手をとめた。

「智偉様? どうかなさいましたか?」

 口の中がからからに渇いている。それでもなんとか押しだした声は自分の外側から聞こえてきているかのように平坦でよそよそしかった。

 デイの顔から表情が消える。

「どういうことなのか教えてくれる?」

「……かしこまりました。夕食のあと、お茶をお持ちします」とデイは静かに頭をさげ、その夜智偉と紗月が夕食を食べ終えるとすぐお茶のポットとカップを持ってきた。お盆には林檎のパイものっている。

「紗月様、以前、アトラスのものは地球にお持ち帰りになれないとお話ししたのを覚えていらっしゃいますか?」

 紗月の隣に座り、しばらくうつむいていてから、デイはゆっくりと口を開いた。いつもと違う空気にとまどっていたのだろう、沈黙をうめるようにカップをなでていた手をとめ、紗月が智偉とデイを不安げに見ながら頷いた。デイが小さく息を吸う。智偉にはもう次に出てくる言葉がわかっていた。デイが口にすることでそれが真実となってしまうことも――

「それは記憶も同じなんです。――アトラスに関する記憶は、地球にお帰りになると同時に消えてしまうんです」


 紗月は先程までカップが置いてあった空間をぼんやり見つめていた。どくん、どくん、と心臓の音がやけに大きく響き、そのたびに頭の中いっぱいにたまった水が揺れているようで、うまくものを考えることができない。智偉も腕組みをしてテーブルを見つめていたが、デイが新しいお茶を持って調理場から戻ってくるとそれを一気に飲みほし、「デイ、いろいろ教えてくれてありがとう。おやすみ」と食堂を出ていった。

 テーブルには林檎のパイが手つかずのまま置かれている。デイはお盆を抱えて立っていたが、やがて「調理場の片づけをしてまいります」と一礼し体の向きを変えた。その背中にはっとして紗月は後を追った。

「デイ、智偉くん、怒ってるわけじゃないと思うよ。ちょっとびっくりしただけだと思う」

 流しに向かっていたデイが振り返った。感謝とも安堵ともとれる笑みが眼鏡の奥にゆっくりと広がった。

「ね、私たちが帰ったあとデイは……アトラスの人は、私たちのこと忘れないの?」

 デイが微笑を崩さず頷く。

「……デイ、見当違いだったらごめん。もしかして」

 デイは紗月を見つめている。馬車の中で赤くなっていた頬、昨日の取り乱した様子――その目はまるでそこから先紗月が言葉を続けるのを恐れているかのように見えた。

「……ううん、なんでもない。おやすみなさい」

 階段を上る足が妙に重く感じられた。頭も体も重い。いろいろなことが同時に起こって、もう紗月が受けとめられる量をこえている。

 部屋の中はぞっとするほど暗く静かだった。何日も暮らしているが愛着はない。ここは仮住まいだ。ふいに立っていられないほどのめまいに襲われ、紗月は壁に手をついた。本当の自分の部屋が無性に恋しい。薄いピンクの桜模様をちらしたアイボリー地のカーテン、とっくに話しかけることもなくなっていた枕元のペンギンのぬいぐるみ――地球に帰りたい。誰も待っていなくてもかまわない、早く帰りたい――

(――でも、帰ったら智偉くんも、デイも……それに)

 ぐらりと視界が揺れる。なぜ今ドノヴァンのことが頭をよぎったのか、しかしもう考えるのは無理だった。ベッドに倒れこむと同時に意識がとぎれた。



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