3-5

「なあ、昼の話の続きなんだけどさ」と客の切れ間にドネルが振り向いた。

「地球が丸いって話。ってことはさ、ある地点から歩きはじめてずっと歩き続けたら、いつかもとの場所に戻ってこられるってことだよな?」

「ああ……はは」

 地球が丸いならスタート地点がゴール地点になる。子供の頃自分も同じように考えた、と智偉は懐かしい新鮮さに笑いをもらした。

「それは地球人なら誰でも一度は考えることだよ。まあ理論上はそういうことだよな。でもまず大きすぎるし、海もあるし、実際には無理だよ。――あ、ドネル、これは」

「うん? ああ、それは請求書だからこっち」とドネルは開いた段ボール箱の一番上にのっていた紙片を拾いあげてレジに歩いていく。智偉は中の缶詰を手にとり、細かい字で書かれた成分表示をしげしげと眺めた。

 数十分前学校の鞄を肩からかけたままドネルとともに現れ、店の手伝いをしたいと言う智偉にルウマは初め驚き、学生の、ましてお客様である智偉にそんなことはさせられないと首を振った。しかしほかにも仕事をしていた地球人はいるはずだし、実はもっとドネルと話す時間がほしいのだということ(もちろんやるべきことはちゃんとやるし、話すのはお客さんがいないときだけにします)、ドネルはドネルでこれまで通りいやそれ以上にちゃんと働くし宿題もちゃんとやる、だからお願いします、そう言って二人で頭をさげると、やがて「あんたたち、ほんとに仲いいんだねえ」と大きな声で笑いだした。

「わかったよ、二人してそんな顔されちゃね。――実はこれからお祭りの準備でパイやらジャムやらの仕込みが始まるから、手伝ってもらえるのはすごくありがたいのよ」

「あれ、今年は屋台出すの? なんだ、じゃちょうどよかったんじゃん」とドネルが体を起こす。あんたは調子に乗んじゃないの、とすかさずその額をはじき、それでもめげずに奥の台所に駆けこんでいく息子を笑って見送ってから、ルウマが「あの子、最近智偉くんの話ばっかりしてたのよ。毎日毎日、今日は智偉にこういう話を聞いた、地球ではああなんだこうなんだって」とこちらに向き直った。三年前に父親が亡くなって以来、ドネルは毎日学校が終わるとすぐ帰宅し、夜までずっと店で働いていたため、遊びにいくことも、反対に友達がくることもめったになかったのだという。

「生意気だし口悪いけど、根はいい子なの。よろしくね、智偉くん」

「……はい。こちらこそよろしくお願いします」

 頭をさげると「あはは、そんなにかしこまらないでよ」と背中をばしっとたたかれた。衝撃が内臓に響き、智偉は一瞬息がとまったのだった――

「無理なのはわかってるよ、アトラスだって歩いて縦断なんかできるわけねえし。な、それより海ってなんだ?」

 海、地球の表面の七割を覆う塩水。深く、広く、さまざまな魚や生物が住む地球の生命の源。しかしドネルはよくわからない顔をしている。

「じゃ、地球は水に囲まれてんのか?」

「囲まれてるってわけじゃないけど……まあ、そういうイメージかな」

 地球の絵が載っている本は図書館にあるだろうかと思いながらなんとか結論づけると、ドネルはそれで納得したように「ああ」と声をあげた。

「宇宙の外側みたいなやつか」

「……えっ⁉」

「えっ?」とドネルが振り返った。

「なんだよ、だってそうだろ? 水がまわりを囲んでて、そこから生き物が生まれてくるならさ」

「……えーと」

 地球の科学では宇宙の外側に何があるのかはまだ解明されていない、混乱する頭を無理やり動かしてそうしぼりだすと、ドネルは「あ、そうなのか? なんだ」と事もなげに言い、智偉が取り落とした缶詰を拾ってほかのものと一緒に棚に並べはじめた。

「宇宙の外側は水なんだよ。アトラスからもときどき見えるし、智偉がいる宿泊所の裏の森、一番奥は外側につながってるんだぜ。いつもじゃないけど。あ、ちょっと悪い」

 いらっしゃいませ、とドネルはレジに向かっていく。その背中が未知の物体のように見え、智偉はせまい通路に呆然と立ちつくした。

(宇宙の外側が水? なんだそれ……)

 地球に帰って発表したらすごいことになる。宇宙についての謎を解き明かす大きな一歩になるはずだ――そこまで一気に考えたところで(あれ、でも)と思考に急ブレーキがかかった。

(このこと知ってる地球人が僕だけのはずないよな。なのにどうして)

「ごめんなさい、いいかしら」

「――あ、すみません」

 横を通りぬけようとした女性が顔を上げ、「あら」と足をとめた。

 アンドリュー・エイブスの部屋に来ていた女性、キトリだった。胸の前にさげたスリングから赤ちゃんの顔がのぞいている。

「あ、こんにちは」

 言ってからほぼ初対面であること(少なくとも正式には)を思い出して内心あわてたが、キトリは「こんにちは。お買い物?」とにっこり微笑んだ。あ、いえ、と答えかけたとき「智偉くーん、ちょっと来てくれるー」と奥からルウマの声がした。

「あ、はい。――すみません、失礼します」

 智偉はキトリに会釈しその場を離れた。


「はい。宇宙の外側は水です」

 知りたいとはやる頭と知るのが怖いと怯む足をなんとかまとめて入った調理場で、デイはこれ以上ないほどあっさり答えた。アトラスは宇宙空間を自由に漂っているため、ときどき一番端に到達することがあるんです。そのときアトラスの先端であるこの宿泊所の裏の森が宇宙の外側と接触します――さも当然のように続く言葉に、智偉は背中に広がる震えを抑えこもうとこぶしを握りしめた。

「いつそうなるの?」

「それはわかりませんが、接触している間はわかります。雨が降るんです」

「デイ、もし僕たちがここにいる間にそうなったら……その」

 デイが頷いた。

「かしこまりました。そのときは必ずお連れします」

「……ありがとう」

 体中にみなぎっていた緊張が大きくはいた息とともに出ていき、智偉は肩を落とした。

 そのことだけでも頭を整理するのに時間が必要だというのに、ドノヴァン・デイビスという高校クラスの生徒につきあってほしいと言われたと夕食中に紗月から聞き、智偉は危うく牛肉のシチューを吹き出すところだった。紗月があわてて渡してくれたふきんで口を押さえて顔を上げると、紗月は「この前も助けてくれたし、いい人だって思ったんだけど」と途方にくれたような顔をしている。

「ゲッホゲッホ……あのさ、それただのナンパだよ。相手にしないほうがいいよ」

 水を飲んで大きく息をつく。今日はアトラス人に驚かされてばかりいる。


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