3-4
図書館の前で智偉とドネルと別れ、バス停のほうに体の向きを変えると、すぐ後ろにドノヴァン・デイビスが立っていた。
「あ、ドニー」
「やあ。名前覚えてくれたんだ」とドノヴァンはにっこりという言葉の見本のような笑みを浮かべた。
「今日は一人なの? いつも智偉ってやつと帰ってなかったっけ」
「あ、うん。智偉くんは今日は用事があって」
「そうなんだ。じゃ一緒に帰らない? 送るよ」
ドノヴァンが流れるような動作で紗月の肩に手をまわした。
反射的に身をすくめた紗月にかまわずドノヴァンはそのまま歩きだす。(え、なに、なんでいきなりこんな)とまわりを見回し――そのあせりはしかし、一人で歩いてくる二つ結びの髪の女の子を視界の隅にとらえたとたん吹き飛んだ。
「ドニー、ちょっとごめん。――ルンゲ? どうしたの?」
ルンゲが目をこすりながら立ち止まった。こぶしも頬も涙でびしょびしょになっている。
「ド、ドネルが、先に」
そのあとは聞きとれなかったが、紗月はぴんときて体を起こした。智偉とドネルはもう見えない。ドネルはルンゲに何も言わず、彼女の目をかすめるようにして帰ってしまったのだ。
しゃくりあげる声に合わせて二つ結びの髪が大きく揺れる。しゃがんでその頭をなで、「そうだ」と紗月は思いついたままに口を開いた。
「ね、ルンゲ、今日は私と一緒に帰らない?」
ルンゲが涙に濡れた目を上げた。
「はい、涙ふこ」
努めて笑顔をつくり、ふっくらした頬と目元にそっとハンカチを当てる。ルンゲは黙ってされるがままになっている。
「ルンゲ、私ね、今日の授業でわかんないところがあったんだ。教えてくれないかな?」
鞄を開けたが、気が急いて目当ての教科書がなかなか出てこない。鞄をななめにしてようやくひっぱりだすと、ルンゲは鼻をすすりながら「どこ?」と紗月の手元に顔を近づけた。立ちあがったところでドノヴァンの存在を思い出したが今はそれどころではない。「ごめん、ドニー、またね」と肩ごしに小声で謝り、紗月はルンゲと歩きだした。
質問に答えているうちにルンゲは気をとり直したらしい。ありがと、と紗月が教科書をしまうとあいたその手をぎゅっと握った。
「紗月は大きいのに、どうしてあたしと同じ教科書使ってるの?」
「私も今サヤルルカ語を勉強してるところなの。地球から来たばっかりだから、まだちゃんと覚えてなくて。だからまたわかんないところがあったら教えてくれる?」
「うん。まかせて」とルンゲが大きく頷く。つないだ手を前後に振りながら二人は歩いた。
ほかの一年生の子とは帰らないのか尋ねてみると、「家の方向が違うもん」という返事だった。ドネルの家はすぐ近くらしい。
「いつもはドネルと一緒に帰ってるの?」
「うん。……でも」ぎゅっ、と再び強く手を握られる。
「……ルンゲはドネルのこと好き?」
下を向いたままの頭がこくりと動いた。
「そっか。どうして好きなの?」
「ドネルは優しいし、強いし、かっこいいから。それにね」とルンゲは勢いよく紗月を見上げた。
「前にドネルのパパが死んじゃったとき、ドネルがすごく泣いてたの。だからあたしがそばにいて、ドネルを元気にしてあげたいの。あたしのママがドネルのママにそうしてたから」
「……そっか、そうなんだ。それでルンゲはドネルと一緒にいたいんだね」
ルンゲはもう一度、今度は大きく頷いた。
食料品店の前を通るときにちらっとのぞいたが、奥にいるのか智偉もドネルも姿は見えなかった。ルンゲは紗月の手をひっぱるように足を速めて通りすぎた。
二、三分で赤い屋根の家に着き、ドアが閉まるのを見届けてから紗月は来た道を戻りはじめた。今日のところは元気になってよかったが、自分を見上げた涙でびしょびしょの顔が頭から離れない。明日は大丈夫だろうか、しかし智偉がドネルと二人で話したいなら――
「やあ、おかえり」
すぐそばで声がし顔を上げると、ドノヴァンが先程のくり返しのようにバス停の標識の横に立っていた。
「あれ、ドニー」どうしたの、と言いかけてどきりとした。さっきのことが気にさわったのかもしれない。
「ドニー、あの、さっきはごめんなさい。話してる途中だったのに、私ルンゲと」
「え? あはは、いいよそんなの。なんだ、俺が怒ってると思った?」と整った顔がおかしそうにほころんだ。
「え……でも、じゃ、なんでまだここに」
「いやね、なかなかバスが来なくてさ」
「……え?」
あれから四十分以上たっている。その間バスが一台も来ないはずはなかった。すると「なーんてね。はい、これ」とひょいと何かが出てきた。お守りのように毎日持ち歩いていた日本語の辞書の表紙がこちらを向いている。
「さっき落としたよ。あの子と話してたとき」
「え、ほんと? 気づかなかった……え、それで待っててくれたの? ありがとう」
「どういたしまして」『かわいい名前だね』
「で、でも、明日学校で渡してくれるのでよかったのに」と紗月はとっさに下を向いた。
「うん、でもそれないと困るでしょ?」
「……うん」
「ほんとはもう少し待って戻ってこなかったら明日にしようと思ってたんだけどね。会えてよかった」
「……ありがとう」
ふいにドノヴァンが目を細めた。
「紗月って小さい子に優しいんだね」
「え、だって泣いてたし、ほっとけなくて」
「……そっか。あ、見て。あの雲おもしろい形じゃない?」とドノヴァンが唐突に空を指さした。
「え? あ、うん。そうだね」
「あっちのも。階段みたいに見えない?」
「あ、うん。そうかも」
「じゃ帰ろうか。送るよ」
「え、あ、それは……あの、だ、大丈夫。ごめんなさい」
「なーんだ、残念。つられてうんって言うかと思ったのに」
「え?」
ドノヴァンは背が高く、紗月の目線の高さに彼の肩がある。形のよい眉がひょいと上がり、紗月はあわてて道に目をやった――直後だった。
「ね、紗月、俺とつきあってくれない?」
「――ふぇっ?」
どこから出したのかわからないような声が出た。
「ね、だめ?」
ドノヴァンはにこにことこちらを見下ろしている。
翻訳機が故障した、わけではないらしい。
「え……え?」
形になる前の声が口からもれる、つきあって、つきあって、と言葉が頭の中で渦になり、その回転で目がまわりそうになったとき目の前にバスがとまり、紗月は我に返った。
「あ、あの、私帰らなきゃ。ごめんね、あの、またね」
ドノヴァンをその場に残し、紗月は辞書を手に持ったまま逃げるようにバスに乗りこんだ。
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