3-2
夕食後ようやく決心がつき、鞄を開けた。
単行本ほどの大きさの辞書はそれほど分厚くない。そっと開くと細かい文字が目に飛びこんできた。意味より先に形に反応する、見間違えようのない文字の羅列――ふいに視界がぼやけ、涙は一粒めが頬に落ちたとたん堤防が決壊したかのように勢いよくあふれだした。
こんな状況を誰が想像しただろう。交通事故にあい、目が覚めたらどこにあるかもわからない、球体ですらない星にいるなんて――自分はまだしも気がかりなのは両親、とくに母親のこと(たとえ一人娘でも、紗月がここにいるかぎり本体は目覚めも死にもしないなら父は単身赴任先から戻ってこないだろうから)だった。母は規則や決められた順序を重んじ、ものごとが予定通りに進まないのを何よりもいやがる。今のこの状況はどう考えても母のスケジュール帳には書かれていなかったはずだ。さすがに怒ってはいないと思う(願うといったほうが正しいかもしれない)が、それでも紗月にはリサイクルに出す牛乳パックを何曜日に切り開くかさえ決まっている母親が自分を心配している姿より、突然降ってわいた予定外の出来事にため息をついている姿のほうが想像しやすかった。日々の生活は間違いなく通常とは違うものになっているだろう。それなのに自分はここで何事もなかったかのように買い物をしたり学校に通ったり、そのうえここ何日かはめまぐるしく過ぎていく新しい生活に慣れるのに精一杯で地球のことを思い出す余裕もなかった。きっとこういうのを親不孝というのだろう。大きく開けた窓の向こうには遮るものが何もない、雲ひとつない深い紺色の空一面に星が瞬いている。あのどれかが地球なのだろうか。ごめんなさい、必ず帰るから、せめてそれだけでも伝えることができたら――
隣の窓に電気がつき、紗月は急いで鼻をすすって手の甲で涙をぬぐった。智偉はあんなにしっかりしているのに自分はめそめそしてばかりいる。わかってはいたが、それでも情けなくて、涙さえ自分のだめさかげんに愛想をつかしたらしく引っこんだ。たまらず部屋の中に逃げこもうとしたとき隣の窓が開き、「紗月、おふろあいたよ」と智偉の声がした。
「あ、あり、がと」
「大丈夫?」
「……何が?」
「淋しくなった?」
横目でこっそりうかがうと智偉は空を見上げていた。背後から明かりに照らされた横顔には紗月同様翻訳機はない。
「……うん、ちょっと、今日借りた辞書見てたらお母さんとお父さんのこと思い出しちゃって。その……迷惑かけて悪いなって」
紗月の言葉を分解し組み立て直しているような間があいた。
「迷惑? 心配じゃなくて?」
とたんに後悔の大波に襲われたが、紗月には時は戻せない。視界の隅でうーん、と智偉がかすかに首をひねる気配があった。
「心配はしてると思うけど……迷惑か。気になるの、そっちなの?」
「うちのお母さん、真面目なんだ。……すごく」
「……ふうん」
真面目かあ、と組み立て直した言葉のてっぺんに最後のひとつをのせるようにつぶやき、智偉は再び空を見上げた。
「――僕さ、小さい頃から星を見るのが好きだったんだけど、こんな惑星があるなんて想像したこともなかった。火星人はまたなんでよりによってあんな姿ってことになっちゃったのかな、とかは考えたことあったけどさ」
ほら、あのイカみたいなやつ、と声に笑いが含まれる。
「最初はびっくりしたし、わけがわからなかったけど、今はこんな体験ができてラッキーだと思ってるんだ。不謹慎かもしれないけど」
ゆっくりと、智偉の言葉が夜空に飛びたっていく。
「迷惑なんて思ってないよ。絶対」
「……そう、かな」
「そう。絶対そう。それに絶対ものすごく心配してるし、だから紗月の意識がここにいるってわかったらお母さんもお父さんも絶対喜ぶよ。……まあ、それができないのがつらいところだけど、今僕らにできるのは帰れる日がくるのをここで待つことだけなんだし、だったらくよくよしてもしょうがないじゃん。ここにいる間は怪我しないように気をつけて、地球のことは帰ってから、でいいんじゃないかな。大丈夫、どうにかなるよ」
夜空は大きさも明るさもさまざまな夥しい数の星でまぶしいくらいだった。その中のひとつ、地球から遠く離れたこの宇宙の片隅に紗月は智偉と二人きりで佇んでいる。宿泊所が丘の上にあるためか、あたりはとても静かだった。
「頑張ろうぜ。大丈夫、僕がいるから」
智偉の声は柔らかかった。ちゃんとした声を出せる自信がなく、紗月は鼻をすすって頷くのが精一杯だった。
おやすみ、と言いあって窓を閉め、振り返るとベッドの上の辞書が見えた。表紙に書かれた「地球」という飾り文字はまるで智偉と一緒に紗月を見守ってくれているようだった。
翌日、午前の授業が終わると同時にドネルは教室を飛びだしていった。智偉の教室は廊下の一番奥にある。どんな様子か気になってそっとのぞいてみると、最前列の席に二人の背中が並んでいた。何やら盛りあがっているようだ。
「どうしたの? 誰かに用事?」ななめ上から声がした。
背の高い少年がドアの枠に片手をかけ、大きな丸い目で紗月を見下ろしていた。短い金髪、首元が少し広めに開いた白い七分袖のTシャツを着ている。ギルリッソの店で水をくれた少年だった。
「やあ。あのあと大丈夫だった?」
「あ、うん。あのときはほんとにありがとう」
「どういたしまして。君、地球から来たって子だよね? 俺、ドノヴァン・デイビス。よろしくね。ドニーって呼んで」とドノヴァンは右手を差しだした。
「平岡紗月です」
「紗月? へえ、かわいい名前だね」
(え)
心臓がどきんとはねた。握られている右手が急に熱くなる。容姿はおろか、名前をほめるなどということを異性――同年代の、それも金髪の――にされたのは生まれて初めてだった。
「何年生?」
「え……えと、九年生、だけど、まだサヤルルカ語を全然覚えてないから、今は低学年の授業受けてるの」
「そっか、頑張ってね。俺は高校クラスの二年生なんだ」
「そ、そうですか……あの、私、そろそろ戻らないと」
「ああ、ごめんごめん。じゃまたね」
ドノヴァンはようやく手を離し、にっこり笑って教室に入っていった。
(なに今の……びっくりした……)
心臓が大きく鳴っている。頬が熱い。紗月は意味もなく前髪をひっぱりながら大急ぎで教室に戻った。
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