2-5

 図書館は村の中心部にあり、大きな木造の一軒家といった雰囲気の建物だった。一番奥の一角に辞書の棚があり、表紙に『EARTH』と書かれたものはあったが日本語は見当たらない。

「司書の方に聞いてみますね。どんな字ですか?」

「あ、えっと。何か書くものあるかな」

 まわりを見回した智偉にデイが近くの机からメモ用紙と鉛筆を持ってきた。

 ずらりと並んだ本を目を輝かせて眺めている智偉から離れ、紗月は館内を歩いてみた。凝縮された言葉が空気中を漂っているような静寂、木の机と椅子、本を読んでいる、勉強している、声をおさえて話をしている人々――ふと気持ちがゆるんだ。なじみ深い場所だ。

 背の低い書棚の前に小さな女の子が座りこんでいる。何気なく横にしゃがみ、目の前の背表紙に人差し指をかけようとして我に返った。不可解な文字が棚に、横の女の子が膝に広げている絵本に並んでいる。一瞬にして自分が今どこにいるのか――どこにいないのか――を思い出し、紗月はあわてて智偉のところに戻った。

 日本語の辞書は司書の女性が探してくれることになった。智偉は英語の辞書を借りることにしたらしい。「見つかったらご連絡します。それまであのメモはお借りしていていいですか?」と貸し出し手続きをしながらデイを見上げた司書の女性に頭をさげ、三人は図書館を出た。

 すぐ近くに学校があった。図書館と同じような木造の一階建ての校舎で、デイが手続きをし、二人も月曜から通えるようになっているという。

 村の中を少し歩き、バス停のほうへ戻りながらデイが懐中時計を取りだした。

「もうすぐ三時になりますので、そろそろ帰りましょう。そこで甘いものでも買っていきませんか?」

「あ……素敵」

 すぐそばの食料品店の店先に黒髪の少年がかがんでいる。三人が近づくと、ひさしと同じ赤と白の縦縞のエプロンをつけたその少年は「いらっしゃいませ」と段ボール箱を持ちあげながら振り返り、驚いたように背筋を伸ばした。

「デイ!」

「こんにちは、ドネル」

「ってことは」と勢いよくこちらを向いた少年と目が合い、紗月は思わず一歩後ずさりした。太い黒縁の眼鏡ごしでもはっきりとわかるほどの激しい怒りがそこに燃えあがっていたのだ。

「あんたたちが地球から来たって人たちだな。あんたたちのせいで俺は一昨日大変だったんだからな!」

「――ドネル! お客様に失礼なこと言うんじゃないよ」

 少年のどなり声の余韻が消えないうちに、それと同じくらいの大声で一喝しながら今度は髪の短い大柄な女性が出てきた。少年と同じ柄のエプロンは縦縞の赤い部分が少し色褪せているが、しわもしみもなく、ひもが体の前できりっと結ばれている。

「こんにちは、ルウマ」

「いらっしゃい、デイ。それと」と女性はにこやかに三人を見回した。

「あなたたちが一昨日来たっていうお客様ね。ようこそアトラスへ。私はルウマ・ヴィトラーニアよ。ごめんね、うちの馬鹿息子が。ほらドネル、あんたも挨拶しなさい」

 ルウマがふてくされた様子で横を向いている少年の頭をバシンとたたく。少年は「いてっ、何すんだよ」と片手で頭を押さえたが、仁王立ちで自分を見下ろしている母親を見るとしぶしぶその手を下ろし、「ドネル・ルウマです」とぼそぼそつぶやいた。

「ん? 名字がルウマ? あれ、でも」

「あっ」とデイが口に手を当てた。

「ご説明が遅れて申し訳ございません。アトラスの名前の制度は地球の制度と少し違うんです。アトラスでは自分の名前と同時に父親か母親の名前を名乗るんです」

「ルウマは私の名前、ヴィトラーニアは私の母の名前よ。だからドネルの場合はドネル・ルウマになるってわけ」とルウマが息子の頭に手をのせた。ドネルがそれを払いのけるように頭を振る。紗月はあわててもう一歩下がり、智偉の陰に隠れた。

「地球では違うの?」

「えーと」と智偉が振り返った。

「あれ、どうした? 紗月」

「う、ううん、なんでもない。気にしないで」

「そう? ――えーと、地球では、というより僕らの国では名字という家の名前があって、同じ家族の一員であることを示すために全員がそれを名乗るんです。僕は高村智偉といいますが、高村というのが名字で、智偉が僕個人の名前です。僕の父と母も名字の後にそれぞれ個人の名前を持っています」

「……ふうーん。なんだか難しいねえ」と神妙な顔で息子を振り返り、ルウマがあわてたように「ドネル!」と叫んだ。と同時にドネルの腕から抱えていた段ボール箱がすべり落ち、袋入りのドライフルーツのようなものがばらばらっと地面に散らばった。あっ、と紗月はとっさに一歩踏みだしたが、先程の彼の激烈な声と目つきの残像にびくりとしばられて二歩めは出なかった。

「あ、やべっ」

 急いでしゃがんだものの、ドネルの顔は智偉を見上げている。ルウマは息子の手が何もないところで空振りをくり返しているのをなかばあきれたように見ていたが、デイが三時なので甘いものを買いにきたと言うとぱっと店の中を振り返った。

「あれ、もうそんな時間? あらやだ、本当だ。ドネル、ファビーとアディーに」

「うん。おーい、おやつだぞ!」

 最後の袋を段ボール箱に放りこみ、ドネルが通りに出て大きな声で叫ぶと、すぐにおそろいの服の塊が二つどこからともなく駆けてきてドネルの脚に抱きついた。二人とも髪の色がドネルより少し明るく、ふわふわしたくせ毛がファビアン、つやのある直毛がアドリアン、双子で四歳だという。二人はぺこりとおじぎをし、それぞれ兄と母親に抱きあげられた。

「ちなみにドネルは……あれ、あんた十三歳? だったよね?」

「先週までな。今は十四だよ、八年生。ったく、自分の息子の年忘れてどうすんだよ」

「あはは、ごめんごめん。さ、二人とも、お兄ちゃんにおやつもらっといで」

 双子が歓声をあげて店に駆けこんでいく。ドネルは一度ちらっとこちらを振り返ったが、すぐに弟たちを追って中に入っていった。

「智偉様、紗月様、何かお好みはございますか?」

「僕は特にないから、女子二人にまかせるよ」

 智偉が肩をすくめて一歩下がる。紗月はとっくにそんな気分ではなくなっていたが、デイは目が合うと「ふふ」とはにかんだような笑みを浮かべた。

 帰りぎわ、ルウマが飴をそれぞれに渡してくれた。

  バスの中でそれをなめているうちに少しずつ紗月の気持ちもほどけていき、宿泊所に着く頃にはなんとか水面近くまで浮上していた。甘いものがもたらす効果はどこの星でも同じらしい。



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