2-4
翌朝早くデイが宿泊所の玄関に入ると、女性が白いロングスカートの裾を踏まないよう脚に軽く巻きつけるようにして階段を下りてくるところだった。
「あら、デイ。おはよう」
「……おはようございます。キトリ、以前から何度もお願いしているでしょう。こちらに泊まるときは先にひと声かけてください」
「ごめんなさいね、もちろんできればそうするつもりだったんだけど、私が来たときはあなたはもう帰ったあとだったのよ。次から気をつけるわ」と女性は涼しい顔で髪をなでつける。
「ムールトリークは」
「家にいるわ。おりこうにお留守番してるわよ」
「一人で?」
「ええ、もちろん。大丈夫よ、あの子が普通の赤ちゃんじゃないことくらいあなたも知ってるでしょ?」
「……ええ、それはそうですが」
「ちゃんとミルクを飲ませて寝かせてから来たわよ。それとも連れてきたほうがよかった? もし夜中に起きても私は一晩中相手できなかったけど」
キトリが首をかしげる。赤くなってうつむいたデイの耳を、ふ、とそよ風のような笑いがかすめた。
「まあ、そうは言っても、そのムールがそろそろ起きる頃だから私は帰るわ。じゃあね」
「アンドリュー様の見送りには来ますか?」
「いいえ、お別れは昨日の夜たっぷりしたからもういいわ。――あ、でも」と玄関の外に出たところでキトリが三階の窓を見上げた。
「また新しいお客さん来てるのね?」
「……はい。お二人いらしてます」
「それは楽しくなりそうね。じゃ、またね」
「……え、ちょっと」
デイの制止を気にもとめず、キトリはそのまま建物をまわりこんで歩き去った。
強く頭を振り、デイが玄関のドアを閉めたのは少し時間がたってからだった。
智偉が昨日買った服(綿の白いボタンダウンシャツと細身の紺色のパンツ、ソフィアが次々持ってくる中で一番無難かつしっくりくるもの)に着替えて部屋を出ると、ちょうど紗月も隣のドアから出てきた。紗月は膝丈の生成りのワンピースを着ている。シンプルで素朴な感じがよく似合っていたが、すとんと台形に裾が落ちる形が幼稚園児のスモックを連想させたせいか、デイが選んでくれたのだと嬉しそうな様子はどこか年の離れた妹を見ている感があった。
食堂には先客が――一昨日窓の下にいた浅黒い肌の男性がおり、二人が気づくのと同時に彼もこちらを見てお、という顔になった。横に立って彼と話していたデイが紹介してくれたところによると、やはり彼も地球から来てここに滞在しているのだという。智偉が自己紹介しようとしたとき、ふいに彼が片手を上げてこちらを制し、デイを見上げた。
「デイ、あれはこういう場合でも使えるのか?」
「えっ? ああ、はい、もちろんです。機能としては同じですから」
「そうか。すまない、ちょっと待っていてくれ」
男性は立ちあがって食堂を出ていった。「お二人の朝食の準備をしてまいります」とデイが一礼し、調理場に立ち去る。二人が顔を見合わせたところへ男性が戻ってきた。
「いや、すまなかった。改めてよろしく。アンドリュー・エイブス上等兵だ」と気のいい笑みを浮かべた彼と順番に握手し、二人は正面の席に座った。アンドリューの前には分厚いフレンチトーストの皿が置かれている。
「よろしくと言っても、俺は今日が最後なんだけどな。今日地球に帰るんだよ」
「えっ、そうなんですか?」
紗月が大きな声をあげ、すぐにごめんなさい、とあわてたように身を縮める。明かりに照らされたあの女性の顔が脳裏をよぎったが、智偉は何も言わずにおいた。紗月には昨晩のことは話していない。
「あの、帰るときってどうやって決まるんですか?」
「さあ、俺にもよくわからないが、おそらく地球にあるほうの身体の準備ができたってことだろうな。二、三日前にデイから知らされたよ。君たちはいつここに来たんだい?」
「一昨日です」
「二人一緒に? そうか、じゃ心強いな」
はい、と紗月が頷く。あごが胸につきそうなその頷き方に思わず小さく笑ったところへ、デイが二人の朝食をのせたお盆を持って再び出てきた。
「デイ、出発は何時だったかな?」
「九時に迎えの馬車がまいります。支度をお手伝いしますので、お食事が終わりましたらお声かけください」
「わかった、ありがとう。今すんだところだよ。――君の料理もこれが食べおさめだな」とアンドリューが立ちあがった。
「長い間、君には本当に世話になったな。心から感謝してるよ。ありがとう」
「こちらこそ、お会いできて光栄でした。ありがとうございます」
「支度は自分でするから大丈夫だよ。ここを出るときに最終チェックしてくれればいい」
じゃ、お先に、とアンドリューは三人に敬礼し食堂を出ていった。紗月が小さく息をつく。デイを疑っていたわけではないが、必ず帰れるという話が裏付けられて少なからずほっとし、智偉もフォークを手にとった。
「デイ、地球に帰るときってどこから帰るの?」
「王宮の『間』です」
「来るときも?」
「はい。――申し訳ございません、そういうことでして、私は一度アンドリュー様と王宮に行かなければならないんです」とデイが壁の時計を見上げた。
「そっか。じゃ、僕らはちょっとこのあたりを探索してようかな」
「かしこまりました……あの」
ふとデイの声の調子が変わった。
「くれぐれも森にはお入りになりませんよう、お願い致します」
「ああ、うん、わかってる。入らないよ」
紗月と顔を見合わせて答えるとデイは微笑み、「お昼には戻ります」と一礼した。
部屋に戻るとすぐコンコン、とドアがノックされた。
先程のアンドリュー・エイブスだった。食堂ではグレーのTシャツ姿だったが、今は迷彩服に身を包んでいる。「やあ。これ、よかったらもらってくれないか? 君の役に立つと思うんだが」とアンドリューは薄茶色の表紙のノートを差しだした。かなり使いこんだものらしく背表紙がすり切れ、中の紙も折り目がついたりくしゃくしゃになったりしている。開きぐせがついているページを開けると昨日町で見た文字と筆記体の英語がびっしり書かれていた。
「――ああ! ありがとうございます」
昨日はまったく読めなかったが、英語が一緒に書いてあれば解読できる。アルファベットのようなものだろうか、これとこれが対応しているのか、などつい夢中になりかけ、ふと目の前の沈黙に智偉は我に返った。
「あ、すみません」
「いや、いいんだ。――彼女は恋人?」
アンドリューは隣の部屋のドアをちらりと見たが、智偉がいいえ、と答えると「そうか」とその目をふせた。口元が何か言いたげに動いた気がしたが、彼はそのままがっしりした手首を持ちあげて腕時計を見た。
「そろそろ時間だ。じゃ、元気でな。幸運を」
「はい。ありがとうございました」
ドアを閉めかけていた手がとまり、アンドリューが意を決したように顔を上げた。
「すまないんだが、君が地球に帰ることになったら、帰る前にそのノートをある人に渡してもらえないだろうか。キトリという女性だ。この宿泊所の裏の森に住んでいるんだが」
「……わかりました。僕が帰るときにその人に渡します」
「ありがとう。よろしく頼む」とアンドリューは微笑み、今度こそドアを閉めた。
紗月はノートの中を見たとたん困ったように眉をひそめた。同じ十五歳だが紗月は中学三年生で(こういうとき早生まれであることをいちいち説明しなければならないのが若干煩わしいのだが、紗月もつい先日誕生日を迎えたばかりらしく「学年でも早いほうなんだ」となぜか申し訳なさそうだった)英語はあまり、というより決して得意なほうではないらしい。
「昨日のギルリッソさんのところにそういう眼鏡ないかな……かけたらアトラス語が読めるようになる、みたいな」
「ああ、あったら便利だよな。はは」
昼に戻ってきたデイは、アトラスと地球の言語の辞書のようなものがないかと尋ねるとすぐに頷いた。
「では、昼食が終わりましたら図書館にまいりましょう。よろしければ村の中も少しご案内致します」
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