2-3

 帰りのバスは停留所ごとにすいていき、朝馬車がとまっていた場所の近くで降りたときにはほかに乗客はいなかった。荷物は智偉とデイが持ってくれたが、貧血後の倦怠感が残る体で登る坂道はきつく、デイが荷物を置いて部屋のドアを閉めたとたん紗月は崩れるようにベッドに倒れこんだ。朝から起きたいろいろな出来事が頭の中をぐるぐるまわっている。デイの話、王宮や二人の王様のこと、ギルリッソの不思議な店――銀縁眼鏡の奥、紗月の内側を見透かすかのような鋭い灰色の光――ワンピースの袖を鼻先につけてみたが幸い匂いは残っておらず、腕をぱたりとベッドに下ろしたときコンコン、とノックの音がして智偉が顔をのぞかせた。

「気分はもうなんともない? よかった。な、ちょっといい?」

 智偉は隣に腰をおろして窓に目を向けた。ガラスの向こうには青空が広がっている。

「な、朝行った『間』のことなんだけどさ。中にいたときのこと、何か覚えてる?」

「……ううん」

 地球のことは思い出していた。自分自身のことや家族のこと、いいこともあまり思い出したくないことも、先程店で脱いでデイに預けた紺色のセーラー服が毎日通っていた中学校の制服であることも。

 しかし、『間』の中で過ごした時間とそこであったはずの出来事はどんなに考えても思い出せなかった。たしかに何か大事なものを見たはずなのに、覚えているのは入ったあとと出る前に智偉が手を握ってくれたことだけで、そのほかのことは水面に揺れる波紋が水底を隠しているようにいくら見ようとしても見えない。地球の記憶だけが初めからそこにいたかのような顔で居座っているだけで、どうやって思い出したのか、部屋の中で何があったのかがまったくわからないのだ。そして何より不思議なのは、部屋を出たあと、まるであの木の扉に記憶の裾がはさまれて一歩ごとに脱げ落ちていくかのように中での出来事が消えてしまったことだった。

「そっか。僕も覚えてないんだ」と智偉が首の後ろをさすった。

「でも地球のことは思い出したよな。――ここに来ることになった理由も」

 悲鳴のようなブレーキ音が耳の中で響いた。内臓に冷たい風がひゅっと吹きこむ。横断歩道の白線、スローモーションのような一瞬――

「あんまり怪我してないといいな、僕たち」

 その声は驚くほど明るかった。

 智偉がにっと笑った。『間』の中でふれた手と同じくらい温かな笑顔だった。

 ――その瞬間固まっていた恐怖がほどけた。

「まだよくわかんないけど……なんか頑張れそうな気がしてきた」

「あ、そう? よかった、今までけっこう不安がってるみたいに見えたから。朝アトラスの端っこのこと聞いたときなんか泣きそうになってなかった?」

「うん……私、だめなんだよね、ほんとに。クラスに私のことネガティブ倉庫って呼ぶ男子がいるくらいなんだ」

 一拍間があき、「あははは」と笑いがはじけた。

「そ、倉庫? なんで倉庫? あははは」

「え、な、なに? そんなにおかしい?」

「おかしいよ、だって倉庫って、あーだめだ、腹痛い」と智偉は体を二つ折りにしておなかを抱えている。馬鹿みたいなことを言ってしまったと猛烈に恥ずかしくなり、紗月は人間として可能な限り首を縮めた。

「――ごめんごめん。で、なんだっけ?」

 しばらくののち、ようやく智偉が指で涙をふいて笑いをおさめた。

「……なんでもないです」

「そう? ――僕、アトラス様って結局何なのかわからなかったんだけどさ。もしかしたら神様なのかもな」

(神様……)

 紗月には神様のイメージもよくわからない。でもそう思うしかないという気がした。理解できたかどうかは別として、今は起きていることをそのまま受け入れるしかないのだ。

「こうなったら僕たち運命共同体だな。改めて、よろしく。紗月」

 智偉が手を差しだした。

 一人ではない。智偉がいてくれる。これから先何が起きても智偉と一緒ならきっと乗り越えられる――それは突然始まったこの不可思議な状況の中でようやく見つけた手応えのある安心感だった。とはいえそんなことを面と向かって口にできるはずもなく、かわりに紗月は「こちらこそ、よろしくお願いします。智偉くん」と力をこめてその手を握った。

「あ、ちなみにね」と智偉が世間話でもするように口を開いた。

「宇宙空間は真空だから窒息死するって思いがちだけど、違うんだよ。宇宙は気温約マイナス二百七十度なんだ。だから実際は窒息してる暇なんかなくて、コンマ何秒かでパキパキパキって凍っておしまい。凍死するんだよ」

「……あ、そうなんだ。詳しいね、智偉くん……」

「うん、僕高校の部活天文部なんだ」と智偉は再びにっと笑い、それじゃ夕食までちょっと休んでなよ、と部屋を出ていった。

 自分はギルリッソの目が宇宙に似ていると思ったのかもしれない。でもデイは彼のことをとても信頼しているようだったし、なら悪い人ではないのだろう。マイナス二百七十度というのがどのくらいの寒さなのかは見当もつかないが――そこで自分は文芸部であると言いそびれたのに気づいたが、改めて話題にするほどのことでもない。ひとまずすすめに従ってもう一度ベッドに倒れこんだ。


 その夜遅く、智偉は廊下を歩く足音を耳にした。それは紗月の部屋を通りすぎてそのまま遠ざかっていく。朝紗月が言っていた男性かと思ったが、予想に反して廊下の先に見えたのは長いウェーブの髪と白いロングスカートの後ろ姿だった。ゆったりと、水の上を散歩しているかのような足どりで廊下の一番奥まで行き、ドアを軽くノックする。束の間の沈黙ののち明かりが細く、続いて大きく広がり、その人物を照らした。

 昨日玄関の前にいた女性だった。

 ふいに彼女がこちらを向き、小さく首をかしげた。

 ドアが閉まり、廊下はもとの暗さを取り戻した――ふんわりと匂いたつような彼女の微笑みの残り香と、金縛りにあった丸太のように立ちつくす智偉だけがそこに残った。

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