2-2

「――おお、デイかね。よく来た」

 コツ、コツ、と足音がし、奥から杖をついた年配の男性が現れた。やせて背が高く、くるくるとカールした灰色の髪、デイとよく似た銀縁の眼鏡をかけている。その奥の目がデイをみとめてふっと細くなった。アトラスの人は優しそうな人ばかりだとほっとしかけた、次の瞬間男性の視線がこちらを向いた。

 一瞬前とは別人のような鋭い目つきだった。怒りや侮蔑ではないが、今日ここに来るまでに会ってきた人々とは明らかに違う、まるで――何のようなのだろう、形容する言葉が見つからない。隣で智偉もはっと身構えるように姿勢を正した。

「おや、そちらはどなたかな」

 デイが一歩脇にずれ、二人を紹介する。あわてて頭をさげ、おそるおそる体を起こすと、こちらを見据えていた瞳が「おや」とわずかに動いたのが見えた。

「二人同時に? ――そうか、では昨日の翻訳機はあんたがたがお使いなのだな」

「お二人の翻訳機はギルリッソさんがつくったものなんです」とデイが口をそえる。その間ギルリッソは微動だにせず二人を見つめていたが、デイが宿泊所の二人の部屋に置く時計を借りたいと言うと「ほう、時計かね。よいとも。こっちに来なさい」ともと来たほうへ体の向きを変えた。

 奥は作業場のようだった。製作の途中だったのか、白いライトに照らされた木の机の上に細かい部品が散らばっている。

「どれでも好きなのを選ぶとよい」

 小さな置き時計が並ぶ壁際の棚を杖を持っていないほうの手で指さし、ギルリッソが再び動きをとめた。

 身がすくむような存在感だった。静止しているのに視線がぴったり自分たちにはりついているのを感じる。どれを選ぶか試されているのかもしれない、急いで目の前の時計に手を伸ばすと、ギルリッソは「けっこう。では、少し調整させていただこうかな」と作業机に杖を立てかけて椅子に座り、眼鏡ごしにぎょろりと二人を見上げた。

「少し店のほうで待っていてくれんかな」

「あ、はい。お願いします……」

 二人は足音を忍ばせるようにして店に戻った。デイはドアのそばに佇んでいる。

 壁にはごくシンプルなものから大きなからくり時計までさまざまな種類の掛け時計が、テーブルにはいろいろな形や大きさの置き時計が並んでいる。だが針の音はまったく聞こえなかった。声を出すのはおろか、つばを飲む音さえはばかられるような緊張感のある沈黙が満ちている。こちらを見つめる無数の時計、とまった時を刻む沈黙、全身に霧のようにまといつく不思議な匂い――ふとここが異次元であるかのような錯覚に陥った。

 体をめぐる血液が急に冷えた気がした。背中と脇に冷たい汗が流れる。視界が揺れ、デイの声が遠く、近く響く――

「ごめん、ちょっと外に……」

 よろめきながらなんとか入口にたどりつき、ノブに手をかけたと同時にドアが外に開いた。支えを失った体がぐらりと大きく傾き――

「おっと、ごめん!」二本の腕――「どうしたの、気分悪いの?」――頭の上で声がした。

 抱えられたまま踏みだした瞬間視界を覆っていた霧が光にはじけた。強く目をとじ、新鮮な空気を必死で吸いこむ。ぐわんぐわんと揺れるように何歩か漂い、また薄暗くなり、気づくと紗月は冷たい石段に座って膝に顔をふせていた。胃の中に店内の匂いがたまっている気がする。そばにデイがかがんでいるが、吐いてしまいそうで口を開けられない――後ろでドアが開き、「デイ、ギルリッソさんが呼んでるよ」と先程の声がした。

「え、ですが紗月様が」

「ここは俺がいるから大丈夫だよ」

 体に揺れが伝わらないように頭を動かす。頷いたとわかってもらえたらしい、少し間があき、「では、ドノヴァン、お願いします。紗月様、申し訳ございません。すぐ戻ります」とデイの足音が駆けていった。

 温かい手のひらが背中にふれた。

「大丈夫? 水、飲める?」

 持たせてもらったコップも中の水もひやりと冷たく、通った部分から透明になっていくようだった。ひと口ずつ、胃の中のもやもやが消えていき、紗月はすがるような気持ちでコップの中身を飲みほし息をついた。

 隣に座っていたのは紗月より少し年上くらいの少年だった。

「もっといる?」

「ううん……大丈夫、ありがとう。楽になった」

「慣れないときついよね、あの匂い」

 少年が紗月の背中をさすりながら微笑む。昼下がりの陽の光のように柔らかな金色の髪だった。


 デイが紗月を追って出ていってすぐ、ギルリッソが二人の時計を持って戻ってきた。「ありがとうございます……あの」と受けとりながら智偉は顔を上げた。

「僕らの翻訳機もギルリッソさんがつくったって言ってましたが、アトラスの人たちはどうして僕らの言葉がわかるんですか?」

「私たちには、お二人の言葉がアトラスの言葉に聞こえています」

 ドアのそばでデイが微笑んだ。いつのまに戻ってきていたのか、突然声がしたことでまず単純に驚き(鐘の音はしただろうか?)続けて智偉は「えっ」と薄暗い店内にそぐわぬ大声を出してしまった。思考が急回転を始める。自分と紗月はまちがいなく地球の言葉を話している、それが翻訳機なしでアトラスの言葉に聞こえる、一体どうしてそんなことが――

「アトラス様のご加護だな」

 厳かな声に智偉は反射的に背筋を伸ばした。一瞬デイが声色と口調を変えたのかと思ったが、それはギルリッソが発した声だった。

「何もかもアトラス様のお力だな。それですべて説明がつく」

 杖を手に立つギルリッソは人間というよりどこか置物じみて見えた。部屋の隅に佇み、人間のさまざまな営みや犯してきた罪を何百年も見つめ続ける無言の柱時計――ふとそんなイメージが浮かび、言葉を飲みこんだ智偉を濃い灰色の瞳が眼鏡ごしにぎょろりと見た。

「あんたがた、もうアトラス様にお会いしたんかな」

「あ、はい。さっき、午前中に」

「そうか、なら安心だな。アトラスでの時間を楽しむとよい。デイ、眼鏡の調子はどうかな」

 大丈夫です、とデイが答えるとギルリッソは再び目を細めた。どうやらそれが彼流の微笑みらしい。

「そうか、ならよいな。またおいで」

「はい、ギルリッソさんもお体にお気をつけて。では失礼します」

「……なんか、すごい人だな」

 鐘の音がドアの中に消えてからつぶやくと、デイは「はい。ギルリッソさんは世界に二人といない職人なんです」と心なしか誇らしげな笑みを浮かべた。

 店の横にまわると石段に座っていた紗月が顔を上げた。だいぶ血の気が戻っている。隣にいた金髪の少年が「じゃ、俺は戻るね。気をつけてね」とにっこり笑って勝手口の中に消えた。

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