1-5

 扉の向こうはホールだった。高い天井も壁も白い。随所に飾られているのが豪華な装飾品のたぐいではなくシンプルなガラスの花瓶に活けられた生花であるためか、簡素だが品のよい雰囲気だった。毛足の長い青い絨毯が控えめな高級感を醸しだしている。

 ホールをまっすぐ突っ切り、半円状を描く階段を上って廊下を進む。やがて突き当たりのドアの前でデイが立ち止まった。紗月はまたつばを飲んだが、ドアを開けたのは小さな丸い金縁の眼鏡をかけた白髪はくはつの男性で、大臣だというその小柄な老人が敬意をこめてノックした奥の扉の中にいたのがフィーレ女王とフィール王だった。あわてて頭をさげ、「智偉さんと、紗月さんですね。どうぞ顔を上げてください」という透きとおるような声におそるおそる体を起こしたとたん、紗月は目の前の二人の王様、とりわけフィーレ女王の美しさに緊張も忘れて見とれてしまった。三十代前半くらいだろうか、双子らしく顔立ちがよく似ており、つややかな栗色の髪をフィーレ女王は頭の後ろに結いあげ、フィール王は短く整えている。冠はかぶっていないが、フィーレ女王の片方の耳の上には銀色の花のような形の髪飾りがきらきらと輝き、それが二人に向けている優雅な笑顔によりいっそうの華やかさをそえていた。「ようこそアトラスへ。心から歓迎します。私はこのサヤルルカ地方の王のフィールです。こちらは同じく女王のフィーレ」と隣でフィール王が快活に両手を広げた。

 室内には明るい光が満ちている。デイが大臣とともに出ていくのを心細い気持ちで見送り、すすめられるままソファにおしりをのせながら紗月はそっと部屋の中を見回した。大きな窓に背中を向けるかたちで執務用らしい書き物机がふたつ並んでおり、その横でフィーレ女王がお茶の準備をしている。

「あっ、ごめんなさい! あの、私やります」

「いいんですよ。お二人はお客様なんですから」とフィーレ女王が花のように微笑んだ。

「サヤルルカのお茶はもう召し上がりましたか?」

「はい、昨日宿泊所で頂きました。あと今朝も」

 どぎまぎして言葉を失い、ぎこちなく座り直した紗月にかわって智偉が答えた。「そうでしたか。お口に合いましたか?」「はい、おいしかったです」」――さすが、智偉は堂々としている。

 いれたてのお茶はほんのり甘く、ひと口ごとに体の中心に鎮座していた大きな氷の塊が溶けていくようだった。美しいフィーレ女王が目の前で自らいれてくれたからか、または二人の王様の優しさに安心したからか、香りまで朝飲んだお茶より華やかな気がする。すぐ横ではフィール王が宿泊所は王宮の管理の下にあること、デイが責任者のため何かあれば何でもデイに相談してほしいと話しており、王様を相手に臆さず会話ができる智偉に尊敬の念を覚えながら息をひそめていると、ふいに「アトラス様のことはお聞きになりましたか?」とフィーレ女王の声がした。

 数秒後その声が自分に向けられたものだと気づいた。

「あっ、はい。でも、その……えっと」

「聞いたんですけど、よくわからなかったんです。すみません」と智偉が横から助け舟を出すように補足した。

「そうでしたか。まあ、そうでしょうね。アトラス様のことを言葉で表現するのはとても難しいことですから」

 やっぱりそうなんだ、と智偉がつぶやくのが聞こえたが、紗月はフィーレ女王はまだ自分に向かって話している気がした。が、顔を上げられない。今度こそちゃんと返事をしなければ、しかしあせればあせるほど翻訳機の機能が逆になったかのように脳内の日本語がごちゃごちゃになっていく。智偉の不思議そうな視線がますます混乱の渦に拍車をかける、無理だ、もう透明人間になってしまいた――そうこうしているうちにカップが空になっていたらしく、フィーレ女王が流れるようなドレスを揺らして立ちあがった。

「それでは『』へ参りましょう。デイがご案内します」

 またいつでも遊びにきてくださいね、という二人の王様の笑顔が扉の向こうに消えたとたん、今度は後悔の波が襲ってきた。せっかく話しかけてもらったのになんて無礼なことをしたのだろう。本当に自分は何ひとつうまくできない。役立たず、自分なんかいないほうがいい――怒涛のように流れ出した言葉に飲みこまれそうになったとき、誰かの手がそっと背中にふれた。デイが微笑んでいる。その笑顔に扉が閉まる直前目が合ったフィーレ女王の顔が重なった。真善美そなえたと言うにふさわしいフィーレ女王の微笑みにはつくりものの気配はかけらもなかった。フィーレ女王もデイも自分をとがめても疎んじてもいない、素直にそう思うことができ、小さく頷いてようやく紗月は歩きだした。デイの手にはフィーレ女王から渡された金色の大きな鍵がある。

 一階のホールをぬけ、広い廊下を進むと突き当たりに扉があった。中は薄暗く、壁に点々とともっている蝋燭が石造りの壁と階段をぼんやり照らしている。デイの後を壁に手をついてこわごわ下りていきながら見上げると、さすがの智偉も緊張しているのか少し表情が硬い。

 頑丈そうな木の扉の前でデイが振り返った。

「こちらが『間』です。私がご案内できるのはここまでです」

「え、僕たちだけで入るの?」

「大丈夫です。私がここでお待ちしていますから」

 金色の鍵が鍵穴に差し込まれる。がちゃり、と大きな音がした。

「それでは智偉様、紗月様、いってらっしゃいませ」

 デイが深く一礼した。顔を見合わせ、どちらからともなく頷きあう。智偉がノブに手をかけ、扉を開けた。


 中は暗い。ふたりが入ると扉が閉まり、完全な暗闇になった。

 無意識にさまよわせた指先に温かいものがふれ、そのまま強く握られる。二人はおそるおそる進んだ。何の物音もしない。

 四歩め、床がなくなった。

 突然のことで声も出なかった。つないでいた手が離れる。

 落ちた、と思ったが落下していく感じはない。水の中に飛びこんでそのまま漂っているようだった。相変わらず真っ暗で何も見えない。

「智偉、くん」

 自分の声が自分の中で響いた――瞬間まわりに光があふれ、紗月は反射的に強く目をつぶった。

 少し身を固めていたが何も起こらない。

 おそるおそる目を開けるとまわりは再び暗くなっていた。だがさっきのような真っ暗闇ではなく、ところどころに小さな光の粒が見える。目が慣れるにつれてその数はだんだん増えていき、気づくとあたりは一面星空のようになっていた。

 目の前に顔と同じくらいの大きさの球体が現れた。実際にこの目で見たことはないがよく知っている、美しい青い星。そっと両手ですくいあげたとたん胸の奥が激しく疼き、紗月は地球を胸に抱いた。

 次の瞬間いろいろなイメージが流れこんできた。自分自身のこと、家族、学校や部活や友達、今までまったく思い出せなかった地球での生活と今まで生きてきた人生――耳を突き刺すような甲高いブレーキの音、地面に引かれた横断歩道の白線、スローモーションのような一瞬の中強くつかまれた腕――

(……そうか)

 腕を開くと地球はすっと遠ざかり、視界から消えた。

ひときわ白く明るく輝いている光があった。手を伸ばしてふれた指先に温かさが伝わり、直感した。

 同じように胸に抱くと全身に温もりが広がった。圧倒的な安心感に体も心も包みこまれていく。心臓の鼓動が光に伝わって、ドクン、ドクン、と同じリズムで脈打つ。

 ――生きている。この宇宙のどこかで、まちがいなく、ちゃんと。

言葉では言い表せないほどの感謝に涙がこぼれた。

(アトラス様、智偉くんを、私たちを助けてくれて、ありがとうございました。どうかこれからも私たちをお守りください)

 胸に抱いた光がいっそう温かくなった気がした。紗月は目をとじて祈り続けた。


 ふと足の下に硬い床を感じた。

 まわりは元の暗闇に戻っていた。星が見えない。胸に抱いていたアトラスも消えている。

「……智偉くん?」

 紗月、という声に続いて手がふれる。握られ、握り返す。紗月をつなぎとめてくれた手、アトラスのように温かい手だった。二人は一歩一歩ゆっくり歩いて扉に向かった。


 扉の外は薄暗かったが、『間』から出た目にはまぶしかった。おかえりなさいませ、ご気分はいかがですか――デイの声が遠くから聞こえる。

「ひとまず上に戻りましょう。階段を上りますのでお気をつけください」

 まだ星空の中にいるような気分のまま、紗月はデイと智偉に続いて階段に足をのせた。

 白い光がふっと色褪せた。

 一段上るたびにたった今扉の向こうで見たものが遠ざかり、とどかなくなっていく。

(だめ、待って――消えないで)

 伝えなければならないことがある、のに――あせる気持ちとは無関係に、まるで誰かが勝手に動かしているかのように足が階段を上り続ける。止まることも振り返ることもできず、気づくと紗月は青い絨毯の廊下に立っていた。

 智偉が振り返った。夢から覚めたばかりのような目だった。

「……紗月、今」

「もうすぐ十二時です。あちらにここの使用人の食堂がありますのでご案内致します」

「待って、デイ、僕ら今」

 デイが振り返って微笑んだ。

「アトラス様の記憶は智偉様だけの、紗月様だけのものです。もう見えなくてもお二人の中にはございます。決して消えることはありません」

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