1-4

「お二人がここで怪我をなさると地球にある身体にも同じことが起きてしまうんです」

「……つまり」と智偉が腕組みをしたまま口を開いた。

「事故か何かで意識を失ったんだとしたら、僕らはおそらく病院にいる。今ここで、たとえば骨折したりすると、初めは何ともなかった足が意識を失ってる間に突然折れた、みたいな感じになるってことかな。逆に本体のほうが怪我してたとしても、それは今の僕らには反映されてないんだ?」

「はい。ですから地球にある身体がどういう状態かは……申し訳ございません。ですが亡くなってはいませんし、お二人がここにいる間に亡くなってしまうということもありません。地球にある身体が回復次第必ずお帰りになれます、ですからご安心ください。――お二人は昨日ここで目が覚める前に地球で何があったか、覚えていらっしゃいますか?」

 二人は顔を見合わせ、同時に首を振った。

「大丈夫です、皆様そうですから。今日王宮でアトラス様にお会いになればすべて思い出せるはずです」

「アトラス様? って誰?」

 デイがすっと居ずまいを正した。瞬間、それまでの彼女の柔らかな物腰が凛と一変した。

「アトラス様とは、この星そのものです」

 無駄な装飾が一切ない簡潔な答えだった。

 あらゆる言葉が透明になったような間があり、ややあって「えーと、というのは、つまり?」と智偉が体勢を立て直した。

「お会いになればおわかりになると思います。――申し訳ございません、まもなく王宮から迎えが来る時間です。続きは馬車の中でご説明致しますので、ひとまず参りましょう」とデイが壁の時計を見上げて微笑んだ。

 宿泊所は小高い丘の上にあり、裏は森だった。玄関の前は開けて土がむきだしになっており、それがそのまま野原を横切る細い坂道になってふもとへと続いている。ふもとには黒い箱型馬車がとまり、濃い焦げ茶色の馬が一頭、三人を待っているかのように頭をたれていた。帽子を持ちあげた御者の男性に挨拶し、まず智偉が乗りこむ。続いて紗月が隣に、デイがその正面に座ると、興味津々といった様子で中を見回していた智偉が身を乗りだした。

「デイ、この星の移動手段は馬車がおもなものなの? 車とか電車とかないの?」

「いえ、これは王宮からの迎えですので馬車なんです。ここは田舎ですので自動車はあまりないですが、これから行く町のほうではよく走っていますし、鉄道もあります。このあたりの住民はおもにバスを使っています」

 智偉の目が輝いた気がした。

 デイがワンピースのポケットから懐中時計を取りだした。王宮までは村と町をぬけるため一時間ほどかかるらしい。アトラスでは地方という呼び方で地域を分けており、ここはサヤルルカ地方、統治しているのはフィーレ女王とフィール王という双子の姉弟だそうだ。

「え、アトラス様は王様とは違うの? ふうん……」と智偉が腕組みをする。「アトラス様」について考えをめぐらせているらしかったが、思案に沈んでいたその顔はデイがアトラスは球体ではなく板状であると続けたとたん「え、そうなの⁉ そうなんだ、すごいなあ」と輝いた。紗月としてはすんなり納得している智偉のほうが驚きだが、彼に言わせると惑星が全部球体とは限らない、宇宙についてなんてわかってることのほうが少ないんだから、ということらしい。星といえば球体のイメージしかない紗月にはデイが補足してくれた言葉通り、森や建物や自分たちが乗っている白いまな板が宇宙空間に浮かんでいる様子しか思い浮かべられない。

「サヤルルカ地方はアトラスの端の部分に位置しており、今出発してきた宿泊所の裏の森の奥が先端になっています。危険ですので、くれぐれもお二人だけで森に行かれませんようお願い致します」

「危険って、どうして?」と紗月は思わず声をはさんだが、答えは聞かなくてもわかる気がした。まな板から足を踏みはずす、伸ばした手がとどかず暗い宇宙空間に放りだされる――「万一落ちてしまった場合、まず助かりません。そうなると地球にある身体も死んでしまうんです」とだめ押しのようなデイの言葉で今まで憧憬の念すらいだいて見上げていた星空が果てしなく絶望的な暗闇に変わり、背中に冷たい鳥肌がたつ。しかし、思わず握りしめた手に「大丈夫です、紗月様」と再びデイがふれた。板状のアトラスはもともとその周囲をぐるりと森に囲まれているが、本当の先端の部分はさらに奥、宿泊所からもかなり歩かないとたどりつけないくらいの距離にあるという。「大丈夫だよ、僕らだけで勝手に行かなければ。だよね?」と智偉もなだめるように紗月を、続けて同意を求めるようにデイを見た。はい、とデイが頷いた。

 重力は地下深くの核の部分から働いているが、板状のため端のあたりでは少し弱くなっているらしい。そのことも大いに智偉の興味を引いたようだった。

「ってことは、端のほうに行くとふわふわ浮くようになるの?」

「そこまで顕著ではありませんが、体が少し軽く感じられるくらいの変化はあるかもしれません」

「すごいなあ、そんなの地球じゃありえないよ。それにアトラスと宇宙空間の境目も見てみたい。な、デイ、それ見に行けないかな?」

「そうですね……いずれ機会があればご案内できるかと思います」

「ほんと⁉ ありがとう。楽しみにしてる」と智偉がデイに笑いかけた。

 デイがびくっと震え、懐中時計に目を落とした。

 智偉は窓の外に顔を向けている。見ているとデイが顔を上げた。頬が赤くなっている。目が合ったとたんデイはますますあわてたように時計を握りしめてその目をそらし、あれ、と思ったが紗月はひとまず見なかったことにした。温かい風に土埃が小さく舞っている。座席から絶えず細かい振動が伝わってくるが、それもここがのんびりしたのどかな場所である証拠のようで心地よかった。

 その後も智偉は銀河がどう、光年がどうなどいろいろ質問したが、デイの答えは一貫して「すべてアトラス様のお力です」だった。穏やかだが有無を言わせぬその口調に、言い負かされた格好の智偉は首の後ろをさすりながら紗月を振り向いた。

「うーん、どうやらこの状況を科学的に理解しようとするのは無理みたいだな」

 智偉にわからないことが紗月にわかるわけがない。「アトラス様のお力によって」宇宙のどこにいてもふたつの星に時差はほとんどなく、アトラスの一日が地球の一日である、二人の話で理解できたのはそれだけだったが、それで充分だった。


「智偉様、紗月様、まもなく王宮に到着致します」

 しばらくしてデイが二人に声をかけた。窓の外はだいぶ様変わりしている。舗装された道路を自動車が走り、横断歩道を渡る人の往来も多い。

 歩道沿いに背の高い白い柵が並び、内側に若葉色の芝生が広がっている。その奥、デイが手で示した先に見えたのは、王宮と聞いて紗月がなんとなく想像していた天に向かって高く伸びるとんがり屋根の塔ではなく、白い横長の直線的な建物だった。大きく開かれた門の前で馬車を降り、見回すと白い石畳の道が来訪者を導くように建物まで続いている。あちこちに置かれたベンチで談笑している人々や新聞らしきものを読んでいる人、小さな子供たちが遠くの噴水のまわりを駆けまわっているのも見える。中庭は公園のように誰でも自由に出入りできるのだということだった。

「へえ。でもさ、危なくないのかな? だってこの地方の最重要人物が三人もいるわけだろ。スパイとかテロとか、暗殺とかさ」

 デイがきょとんとした顔を智偉に向けた。

「……いや、なんでもない。治安がいいんだな」

「はい。アトラスでは犯罪はめったに起きないんです」と微笑み、デイが扉の金色のノブに手をかける。ふいに全身に緊張が走り、紗月はつばを飲みこんだ。

 ポン、と肩に手が置かれた。

 智偉がにこっと笑った。好奇心の中に紗月を勇気づけるような優しさがのぞく明るい笑顔に不安が少し消え、紗月も小さく頷いた。

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